Mon Cœur Mis à Nu / 赤裸の心

「美」といふものは「藝術」と人間の靈魂の問題である

2022-01-01から1年間の記事一覧

渡邊一夫『ヴィリエ・ド・リラダン覺書』1940

弘文堂書房上梓。渡邊氏の研究は齋藤磯雄氏が全面的に引継いでおられるから、この本の内容に新しい事は無かったが、以下の渡邊氏の言葉にはと胸を突かれた。 僕はやゝもすれば、リラダンの「人間」としての美しさにほれぼれとして、「作品」自身の持つてゐる…

20221229日記_離別

晴れ。 ベネディクト16世名誉教皇聖下の命旦夕に迫ると報道有り。聖下はカトリック教会の良心であらせらる。主よ、聖下を暫し現世に留め、聖下をして我々信徒を導かせ給へ。尤も聖下御自らは倏忽に常世へ移ることを願っておいでかもしれぬが。さもあれば聖下…

グレゴリオ聖歌_キリアーレ(Kyriale)について

www.youtube.com キリアーレ(Kyriale)とはグレゴリオ聖歌のミサ通常式文集のこと。18組のミサ曲が所収されており、例えば有名な天使ミサ(De Angelis)は8番、クム・ユビロ(Cum jubilo)は9番、オルビス・ファクトール(Orbis factor)は11番である。各々どの祝日…

『Hark! The Herald Angels Sing(あめにはさかえ)』カトリック聖歌集652番

www.youtube.com 本日の主の降誕ミサの入祭唱。私にとってクリスマスキャロルと云えば、この『あめにはさかえ』か『よのひとわするな(God Rest You Merry, Gentlemen)』になる。対譯は原詩に忠実なものにした。カトリック聖歌集のものと異なるため注意された…

モーリアック『偽善の女(La Pharisienne)』1941

神は愛なり 一ヨハ4:16 La Pharisienneはパリサイ女の意。この話で問題となる女は、新約聖書に於るパリサイ人が如く律法に忠実で、罪を冒した人間を咎め、"教化"しようとする。「法律の文字の方を精神よりも守ろう」とする。 その結果多くの人間に反感を抱か…

オスカー・ベーメ『トランペット協奏曲 へ短調op.18』1899

www.youtube.comあなたはオスカー・ベーメもトランペット協奏曲もご存じないでしょう。私も或る人に出逢わなければ、この両者を知ることはなかったに違いない。ベーメはドレスデンに生れソヴィエト・ロシアに没したドイツ人演奏家、作曲家。『トランペット協…

デ・プロフンディス(De Profundis)_羅和対訳

www.youtube.com デ・プロフンディス(De Profundis)とは、「われふかき淵より汝をよべり」を冒頭の語にもつ痛悔の詩篇130のことを指す。但し多くの作曲家が曲を付けている為、聖歌として広く知られている。 既に腐った花で蔽われている墓の前で、ミシェール…

タルコフスキー『サクリファイス(Offret)』1986

本日は待降節第3主日、「喜び(Gaudete)の主日」。神父様は薔薇色のストラをまとう。入祭唱ではVeni, veni, Emmanuelが歌われた。 ledilettante.hatenablog.com 静謐な美を湛えたアンドレイ・タルコフスキー監督最期の作品。マタイ受難曲に始まり、終る。Vati…

20221206日記

仕事から帰る。雨でしとどに濡れたスーツにスカーフそして靴の手入れを終え、私はベッドに倒れ込む。ふとスマホを手に取ると、珍しい友人からの通知が一件(そもそも通知自体が珍しいのである)。結婚するという短い報告。どうでもいいと思いながら、月並みの…

モーリアック『火の河(La fleuve de feu)』1923

フランソワ・モーリアックが創作の初期に遺した短篇小説。「火の河」とは「罪の状態」の比喩表現である。 處女性を渇望する蕩児と、娘の魂の救いのため手を尽す女、この両者の間を彷徨する娘。前二者は、それぞれ悪魔と神の声を象徴している譯。 モーリアッ…

市村崑『こころ』1955

市村崑監督作。夏目漱石の『こゝろ』が原作、森雅之が先生、安井昌二が私、新珠三千代がお嬢さん。やけに芝居臭い演出と思ったが批評家の受けは良かったそう。確かに、先生の遺書の場面になってからは面白かった。だが襖を開けるシーンは絶対に2度必要であっ…

20221127日記

あわれみの神 とく來り給へ我等はみな迎へ奉らん 救いの御子 旅行中で御ミサは欠席したが、本日よりアドベント、待降節。悔い改めの時期と雖も、イエズスの受難を想う四旬節と較ぶれば、期待と歓びとに心も騒ぐ。 この時期になると思い出す。昔マリアージュ…

ネルヴァル『オーレリア(Aurélia ou le rêve et la vie)』1855

睡眠薬をもらう為医者に掛かる。薬さえ手に入ればよいのに、何故医者を介する必要があるのか。詮なき事だ。私の尊大な自尊心は、懊悩や孤独を喋喋と口にすることを決して肯じない。こうして文字におこすことはできるのだが。『ペンは弁より強し』。損な性分…

ムソルグスキー『ボリス・ゴドゥノフ(Борис Годунов)』1874

彌早、今宵のオペラも酷かった。新国立オペラは屡々私を失望させる。現代に於る鹿鳴館の猿共め。ムソルグスキーの音楽は良かった。オーケストラは及第。だが歌手、演出。これらが低劣極まる。歌はピーメン役を除いてあまりに貧弱。演出は軽佻浮薄で貧乏臭い…

ドビュッシー「相思の人の死(La mort des amants)」『ボオドレエルの五つの詩(5 Poèmes de Charles Baudelaire)』1889

www.youtube.com ボオドレエル、『惡の華』の第121篇「相思の人の死」という4.4.3.4の十四行詩<ソネット>に、ドビュッシーが曲を付けた。詩は、相思の2人の愛と死、そして復活という主題。詩譯は齋藤磯雄氏のものを参照した。 Nous aurons des lits pleins d…

メル・ギブソン『パッション(The passion of the Christ)』2004

メル・ギブソン監督作。キリストの受難を描く。全編アラム語とラテン語による、吹替版は監督の意向で作成されていない。サタンの登場以外は、共観福音書に極めて忠実であるように思われる。 世の人の救いのため、自らの尊き命を捧げ給うイエズス。笞打たれ血…

20221112日記

M.N.尊敬すべきあなたが私を大切に思ってくれている。しかもそれを行動で証してくれた。なんという倖せを私に恵んでくれたことでしょう。私は無為な人間ですが、せめて遠くから、あなたの倖せをお祈りさせてください。V.K.M.

ベルトラン『夜のガスパール(Gaspard de la nuit)』1842

この稿本には、諧調と色彩のおそらくは新しい技法が數かずおさめてあるのです。 アロイジウス・ベルトラン(Aloysius Bertrand)による詩集。「散文詩」とはすなわち、無韻無脚でありながら詩的律動を感じさせる文章のことを言うが、ベルトランは『夜のガスパ…

ドン・ボスコ社『愛の使徒 聖ウィンセンシオ・ア・パウロ』1935

神は愛なり(一ヨハ4:16) ドン・ボスコ社発行の『愛の使徒聖ウィンセンシオ・ア・パウロ』なる書物を読んだ。聖人伝とはなかなか面白いものである。 ledilettante.hatenablog.com 前にも書いたが、聖ヴィンセンシオ・ア・パウロは「行動」の人である。教会や…

ドン・ボスコ社『ドメニコ・サウィオ傳』1929

イエス跪づきて祈り言ひたまふ、『父よ、御旨ならば、此の酒杯を我より取り去りたまへ、されど我が意にあらずして御心の成らんことを願ふ』(ルカ傳22:41-42) ドン・ボスコの『ドメニコ・サウィオ傳』を読んだ。ドミニコ・サヴィオはカトリックの聖人。1842年…

ヴィスコンティ『山猫(Il Gattopardo)』1963

ルキノ・ヴィスコンティ監督作。カンヌでパルム・ドール。俳優はバート・ランカスター、アラン・ドロン、クラウディナ・カルディナーレら、ヴィスコンティ作品にお馴染みの顔ぶれ。 教養と秩序、正統美。これぞ芸術。バチカンの推薦を受けるのも宜なる哉。こ…

20221105日記_東京カテドラルにて

人々を強ひて連れきたれ (ルカ傳14:23) 晴れ、よい心地。朝、京都から紅茶が届く。ルフナ地方のルンビニ茶園のもので等級はFBOPF、Flowery Broken Orange Pekoe Fannnings。午餐はフランス料理屋で、Inada fumé、Clepinettes de porcを注文。その後で東京カ…

20221030日記_Meine Ruh ist hin

落ち着きは消え去りて 我が胸のいとおもし 『ファウスト』 御ミサに調和が見出せず、悲しくて、思わず途中でふけてしまった。十字架の影が射した我が心、カトリック以外の何者にも為りはすまいてふ気持に変わりはないが、イエス様は我が信仰薄きをお咎めにな…

中島敦『斗南先生』1942

中島敦による短篇小説、私信と云っても可い。奇言奇行に富む漢学者であった伯父に対する作者のアンビバレントな想いを分析する、心理小説の趣がある。 決して彼が不遇なのでも何でもない。その自己の才能に対する無反省な過信はほとんど滑稽に近い。時に、そ…

中島敦『山月記』1942 感想文

醜悪な現実から目を背けるため書物を読むことが、良い習慣な譯がない。深く夢想に涵れども、一歩書斎を出れば、それは一撃のもとに瓦解する。失望を重ねるうち、人の性は彌々狷介となる。私もそうだ。だがそんな私が自尊心を弑して真っ当に社会生活を営む、…

萩原朔太郎「馬車の中で」詩集『青猫』1923より

仕事で連日伊太利からの客人を饗している。ビジネスライクな英語を聞き、又話していると、美くしい日本語が恋しくなる。酒の酔いが冷めぬままに執筆。 先日丸ビルのサロンにて、松岡多恵女史が歌う、萩原朔太郎の詩による歌曲を聴いて以来、ゆくりなく萩原朔…

20221023日記_「新しいミサ」について

晴れ。主日ミサののち教会の掃除。ビストロで食事を済ませ、秋闌ける小石川植物園を訪れる。篠懸樹の葉隠に憩いて、微睡みながらブラームスのピアノ協奏曲第2番を聴く。私の通った小学校に篠懸の森があったことを想い出し、郷愁に似た感情を抱く。暫し陶酔。…

20221022日記_びいどろつくりとなりてまし

晴れ、小春日和。昼餉はいつものフランス料理屋で、イナダのマリナードとポークのカシス煮込みを注文。向かいの席に容色麗しき人あり。嘗て恋した人に似つ。夜は誘いを承け、丸ビルのサロンで催された音楽会に出席。 萩原朔太郎の詩に三善晃が曲をつけた『抒…

リラダン『アケディッセリル女王(Akëdysséril)』1885、再読

ヴィリエによる中篇小説。初出は1885年La Revue contemporaine誌上。『アクセル』や『トレードの戀人』と同様の主題を持つ。すなわち「或る魂が至高の完成に到達し、もはや下降以外にあり得ない」場合、至福の絶巓に於て自ら命を絶つことは美徳足り得るので…

『リラダン=マラルメ往復書翰集』白鳥友彦譯 1975

森開社上梓。ヴィリエ・ド・リラダン伯爵とステファヌ・マラルメの間に交わされた書翰集。互いの存在が、彼岸世界の詩人らをして、しばし現世にとどまる理由にすら成り得た友情。手紙は歯抜けで、内容に満足はしていないが、それでも示唆に富むものであった…