Mon Cœur Mis à Nu / 赤裸の心

「美」といふものは「藝術」と人間の靈魂の問題である

リラダン『アケディッセリル女王(Akëdysséril)』1885、再読

ヴィリエによる中篇小説。初出は1885年La Revue contemporaine誌上。『アクセル』や『トレードの戀人』と同様の主題を持つ。すなわち「或る魂が至高の完成に到達し、もはや下降以外にあり得ない」場合、至福の絶巓に於て自ら命を絶つことは美徳足り得るのではないかという、カトリシスムへの挑戦的なテーゼである。

一考に値する論題だと思う。
自殺と云っても、その厳密な区別は実は難しい。神の御旨を実現するために敢て擇ぶ死は、自殺ではない。殉死など、兄弟のために死ぬことと換言できる。絶望し、現世から逃るるため擇ぶ死は、自殺である。これはつまり自分のために死ぬことだ。

ではヴィリエが描いているのは? 後者である。自らが汚辱にまみれることを厭うての、自己中心的な死の選擇。斯くの如き死は、カトリシスムの教義に反する者である。

まあカトリシスムに合わぬからとて、それが芸術の価値を損ねるという事はない。まして本作の舞台はインドだ。私はヴィリエの創作に敬意を払う。ユイスマンスレオン・ブロワパリサイ派が如き主張はこれを斥ける。

 

さて、物語に戻る。
女王アケディッセリルは、全インドの将来の禍根を絶つため、別個に俘囚としている前王の弟とその婚約者とを犠牲に供せねばならぬが、その卑劣行為が齎す悔恨を恐れ懊悩していた。彼女は、この二人が、己が魂の懊悩に値するか否かを判断するため、二人の住まいの中へ、見知らぬ女として足を踏み入れた。彼女が見たものは、貞節な、不滅な、永遠の恋であった。彼女は採るべき策を求め、シヴァ神に仕える婆羅門僧を訪ねた...。

 

何物も、歓喜の情に於ては、恋の最初の快さとその逸楽にみちた悩ましさに匹敵し得ない。ところで、もし、何らかの妖術によつて、あの二人の囚人が、死の方が生よりも望ましく思はれる程の、強烈な、身に沁みわたる、未だかつて感じたことのない歓喜のために死ぬ、といふことが可能だとしたら?

 

かくも思ひ設けぬ浄らかな陶酔の、あまり倏忽として快き、復活。この恍惚として迸る心情の反動。二人ながら永久に実現し得ぬものと信じてゐた、この稲妻を放つ接吻の、内面的衝撃。かくの如きが、この二人の男女をば、羽搏きのただ一煽りもて、この人生の外、彼等自身の夢想の空へと、拉し去つたのである。そして、必ずや、刑罰とは、彼等二人にとつて、この比類なき刹那の後になほも生きながらへることであつたに相違ない

 

もしデーヴァの神々が、あの二人を目ざめさせる力をそなたに授け給うたとしても、解脱したあの二人が、果たして再び「生」を快く受け容れるとお考へかな?

 

蜿蜒(えんえん) うねって続いているさま
烏兎怱怱(うとそうそう) 月日の経つのが早いこと
妹背(いもせ) 夫婦、夫婦の仲
絶巓(ぜってん)
茘枝(れいし) ムクロジ科の果樹、その果実はライチとよばれる
ユリノキ 落葉広葉樹の高木、国立博物館の車寄せ前の木として有名。