
私は、クロード・ルルーシュの映画を愛することのできる人間を、愛したいと思う。
昨日のこと、6年ほど通って漸く言葉を交わすようになった寿司屋の主人に言われた。「いつもピシッとしてるんですね」。主人が6年間、私に対し「ピシッと」した人だという印象を抱き続けていたいう事実を今更ながら知るのは、何となく滑稽であった。
うだるような暑さの中、主日ミサに与るため新富町でメトロを降りて、百日紅の咲く築地川沿いを教会へと向かって歩いた。ミサ曲は11番オルビス・ファクトール、クレドは3番、マンネリである。聖母被昇天の祝日を控えているのだから、クム・ユビロでよかったのに。そんなことをひとりごちていた所、神父様が説教で我々の「自己中心主義」を戒めた。
さて、『愛と哀しみのボレロ(Les Uns et les Autres)』(1981)はクロード・ルルーシュ監督作。原題を直訳すれば「ある人々、他の人々」、少し意訳すれば「交叉する人々」といった所だろうか。何年も前から見たいと思っていた。そのためにロサ会館のTSUTAYAに問合わせてみたり、長野県は上田市の古劇場で上映されるという情報を得ては信濃行を企ててみたりしたのである
私は1番好きな映画を尋ねられれば、やや逡巡してルルーシュの『男と女』(1966)と挙げるのが常だが、本作は恰もロマン・ロランの大河小説を完璧に映像化して見せたような壮大さで、少なくとも芸術の一表現様式たる「映画」としての完成度は『男と女』を越えている。これまでの映画評価基準の見直しすら迫られるほど、★5では足りない人間賛歌である。
個人の人生を注意深く追いながら、その死を劇的に描かないのがよい。これは意図されての抑制である。というのは、人はみな、紳士だろうと乞食だろうと、一篇の映画では叙述しきれない長大なストーリーを生きている。だが戦争においては、人はただの「数字」としてあっけなく死んでいく。ルルーシュは死を敢えて簡素に描くことで、戦争の「非人間性」を逆説的に指弾していると言っていい。この技法と精神面における円熟さが、流石はヌーヴェル・バーグの巨匠なのである。
更に突き詰めれば、ルルーシュのよさは畢竟その楽観性にある。悲痛な人間のドラマを描きながらも、大局から見た人間性に対する信頼とそれに根ざす不思議な軽快さが心地よい。結局、人の心を動かし得る人間とは、人の苦しみを知るオプティミストなのだろうと思う。Durch Leiden Freude(苦悩を突き抜けて歓喜に至れ)、これはベートーヴェンの言葉である。
ああ、私はクロード・ルルーシュのよさを理解してくれる女性と結婚したいと思う。神父様、これも私の自己中心主義でしょうか。






