チェリビダッケが好き、ムラヴィンスキーが好き、ブラームスが好き、シューマンが好き、ドヴォルザークが好き、マーラーが好き。誰かと趣味を共有できたら倖せであるのに。
ドールヴィイ『デ・トゥーシュの騎士(Le Chevalier Des Touches)』1864
バルベイ・ドールヴィイらしい「語り」による物語小説。
バルベイの故郷ノルマンディー、大革命の時代が舞台。
実在するふくろう党(レ・シュワン)の騎士ジャック・デトゥーシュ(Jacques Destouches de La Fresnay)の英雄譚に着想を得て書かれており、物語の大筋は1799年の史実、デ・トゥーシュ奪還事件に基く。
喪われた貴族的栄光への郷愁を主題とみてよかろう。貴族の気高さを鮮やかに描き出す一方で、貴族を見棄てたブルボン王朝に対する非難めいたものが読み取れる。
強烈なロマンチシズム。ロマン主義を心から信奉する者は本作を賞賛するであろうが、そうでない者は、陳腐で切れの悪い長文に辟易するだろう。
最終章「ある紅潮の来歴」では、エメ嬢がデ・トゥーシュの前で紅潮してしまう理由、すなわち「隠されていながら物質的痕跡によって露顕してしまう現実」がミステリー風に明らかにされるが、これが面白い。この構想は1856年のドールヴィィが訪ねた癲狂院での、デ・トゥーシュとの面会が叶ったために生まれたとか。
パイヤッソン じゃがいもを千切りにしてパンケーキ状に焼いたフランス料理
20220504日記
はじめて男娼を買う。
誰に対する言い訳なのか分からぬが、この頃ますます倦怠は募り、自暴自棄の念があった為の愚行だと信じたい。
肉体的快楽はあったが、贖いきれぬ罪を冒したという想いが強い。どうやら私は背徳に対し快楽を感じる性ではないらしい。
コンフェシオンが問題だ。
私はこの罪を告白せねばならないのか。よしや口に出さずとも、私の顔に差す悪魔の陰に、神父様はお気付きになるだろう。
何を偽善振っているのだか。愉しんだ癖に。
ワーグナー『交響曲 ハ長調』
構成の造形美、一部のパートが先行しない均衡のオーケストレーション。作曲家の名を伏せて聴けば、ベートーヴェンが第一の候補に挙がることは疑いようがない。『エロイカ』を彷彿とさせる。が、ベートーヴェンと較べてしまうと、やはり退屈な訳で。日々の鑑賞レパートリーに加わることはないと思う。
ドヴォルザーク『オセロ(Othello)』op.93
『オセロ(Othello)』は、ドヴォルザークの演奏会用序曲『自然と人生と愛』のうち、「愛」に相当する楽曲である。
愛を代表しているからには、甘美でのんびりとした調べを想像するものであるが、そうではない。一種の憂いを帯びた、暗く情熱的な旋律は、「嫉妬」を表現しているのだそう。愛の一義的意味を嫉妬とするドヴォルザークの根本的気質はスラブ人だ。本人は否定したいだろうがね。
日本に於てドヴォルザークと云えば、彼の交響曲第9番ばかりが演奏されるが、それは勿体ないことだ。ドヴォルザークの1度聴いたら2度と頭を離れない、烈しく心を揺さぶるメロディーが刻まれているのは、何も第9番に限った話ではないから。交響楽作品としては、この『オセロ』をはじめ、第6番や、第7番もおすすめしたい。
私は決めている、この長期休暇を利用して、ドヴォルザーク、マーラー、ショスタコヴィチの交響曲「すべて」を聴くことを。新鮮な音楽に触れて、クラシック音楽の革新性、柔軟性、深みを再確認してゆきたい。
20220422日記
晴れ。暑い。
伊勢丹で靴を買う。かなしい哉、日本に於て2万円前後で買えるまともな靴というと、リーガルくらいしか選択肢が思いつかない。イタリアなら同価格帯で立派なソールの革靴が手に入るであろうに。
絲の如く 麻の如く
尠くとも(すくなくとも)
holocaust 燔祭(はんさい) 猶太人虐殺の意で使われるが、原義は生贄を火焙りにして神に捧げる行事のこと。いや、同義か。
ゆくりなく 思いがけなく、突然に
心緒(しんしょ) 心の中で思っている内容、「心緒絲の如く乱れたり」
そこばく 程度の甚だしいさま。現代では若干の意でも用いられるが、、
伉儷(こうれい) 夫婦
桎梏(しっこく) 自由な行動を束縛すること、そのもの
瀑布(ばくふ) 滝
荷う(になう)
得心(とくしん) 納得
敷衍(ふえん) おし広げること、「敷衍して考える」
怯懦(きょうだ) 臆病で意志の弱いこと
手をこまねく 何もせず傍観していること
弥終(いやはて) いちばんの果て
国手(こくしゅ) 名医のこと
利器(りき) すぐれた才能、便利な方便
頤(おとがい) 顎
綾羅(りょうら) 上等な布
愁然(しゅうぜん) 憂いに沈むさま
砌(みきり) 時節、「幼少の砌」