Epistula ad mē

「それでは、ディレッタントであることを鼻に掛けている連中は、かえって三文文士だと告白しているようなものなのだね」

フローベール『聖アントワーヌの誘惑(La tentation de saint Antoine)』1874

 ブルーゲルの絵画「聖アントニウスの誘惑」に着想を得たフローベールは、30年に渡り、本作品の執筆に取組んだ。

 悪魔の誘惑に曝され、その信仰心を試される聖アントニウスを描く。紀元3世紀頃の話であるから、彼の他作品、つまり俗悪な現代社会を舞台とする『ボヴァリー夫人』や『感情教育』とは趣を異にしている。聖アントニウスの奇怪な幻想が延々と続くだけで、私はあまり楽しめなかった。

 実際、世間の評判は芳しくなかったようだ。
 だが我らが(?)デ・ゼッサントは以下のように評価する。

偉大な芸術家の資性はすべて、この『聖アントニウスの誘惑』と『サランボオ』の比類なきページに輝いていた。これらの作品において、作者がわれわれのみすぼらしい生活からはるかに遠く喚起しているものは、古代アジアの眩いばかりな輝き、そのさかんな放射と神秘な衰滅、その遊惰な乱交であり、あるいはまた、底をつくより早く豪奢と祈りの生活から溢れ出る、あの重苦しい倦怠によって強いられた兇暴さであった。『さかしま』河出文庫版p.249

 彼が何を言おうとも僕は再読したくない。

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右下、朱の僧衣を着た老人が聖アントニウス

ユイスマンス『彼方(Là-bas)』1891

 万事が俗悪で空虚な現代世界に厭いているデュルタルが、ジル・ド・レー男爵の研究を通して、超自然的世界に触れる。彼は中世キリスト教の世界を理想視し渇望するも、神の到来を期待できない(信仰を持てない)。そんなフラストレーションが描かれている。

 小説としては程度が高くない。例えばシャントルーヴ夫人の描き方が下手くそだ。彼女がデュルタルを悪魔礼賛の世界に案内する役割だけを以て登場しているのだとしても。女が生きていない。こういった欠点を抱えつつも、ジル・ド・レーの一代記として、読んでいて面白い。

 

はたして、現身から解脱し、汚穢の巷から逃避して、霊魂が恍惚と我を忘れるような境地に達する方法はないものであろうか

 

文学にはただひとつの存在理由しかない。それは文学にたずさわるものを生活の嫌悪から救うことだ

 

いうところの進歩は、悪徳を上品に見せる偽善です

 

「キリストの降臨をお信じにならないとすると、あなたはいったいなにを希望していらっしゃるのです」
「僕ですか、僕は何も希望していません」
「悲しいかな、僕の信じていることは、年とった神が、この力つきた地上で、なにか譫言をいっているということだけですよ」

 

しかし、信仰とは、君、人生の防波堤だよ。マストを折られた人間が平和に坐礁していられる防波堤だよ

 

 まったく、デュルタルにはシャトーブリアンの警句を聞かせてやりたい。「人生をいまわしいものと考えたからといって、すぐれた人間だとはけっして言えないのだ」。

 

天籟(てんらい) 詩文の調子が自然で、優れていること。「天籟の音色」。
傲岸不遜(ごうがんふそん) おごりたかぶって人を見下すさま。
古反古(ふるほぐ) 古い紙。
ヘリオトロープ(Heliotropium) 香りの強い植物。紫の小さな花を咲かせる。
占星術 天体と人間を経験的に結び付けて占う術
輸卒(ゆそつ) 輸送に従事する兵卒
不身持(ふみもち) 不品行
智天使(ちてんし) ケルビム。子供の姿で描かれる第二位の天使
陽物(ようぶつ) 陰茎

ラ・ファイエット夫人『クレーヴの奥方(La Princesse de Clèves)』1678

 自然描写が殆どなく、恋愛心理の明晰な分析に集中しており、心理小説の祖と云われている。ラ・ファイエット夫人が生んだ、新たな近代心理小説の伝統は、ラクロ『危険な関係』、コンスタン『アドルフ』、ラディゲ『ドルジュル伯の舞踏会』等に引継がれた。また、『クレーヴの奥方』は16世紀(アンリ2世)の宮廷を舞台とし、実際に起こった事件を忠実に再現している点、優れた歴史小説でもある。

 恋愛心理を見事に描写していることは間違いないが、軽率な人間の曰く「社交」なんて面白くもなんともない。クレーヴ夫人が「貞淑」だとも思わない。蓋し浮気は心の中で行われるもの。唯々浅ましいように思われる。『ボヴァリー夫人』のシャルルにも通ずるが、クレーヴ殿のような篤実な人間は不幸にしか成り得ない。これだけは真理だ。

 

ここではね、もし表面のことで万事を判断していたら、あなたはいつも間違ってばかりいるのですよ。そう見える、というのは決して真実でないといってよろしい。

 

有象無象(うぞうむぞう) 雑多なつまらぬ人間を指していう。
縉紳(しんしん) 官位が高く身分ある人
あれかし あってほしい

鵜の目鷹の目 鋭い眼差しでものを探し出そうとするさま
隙見 のぞき
心遣り 憂さ晴らし
陋巷(ろうこう) 狭く汚い街

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ラ・ファイエット夫人(Comtesse de La Fayette) 1634-93
 パリの小貴族の家に生れ、21歳でラ・ファイエット伯爵と結婚。別居後パリに戻った夫人はサロンを開き、文人らと交流した。『モンパンシェ公夫人』でデビュー。

2021.05.30夢日記

 春。太陽の下を白い蝶が優雅に飛んでいる。
 僕はそれを眺めてうっとりとしている。
 次の瞬間、蝶は蜘蛛の罠にかかった。
 蜘蛛は蝶に飛び掛かる。
 鋭い牙が、蝶の翅を無惨に食い千切った。
 僕が愛した蝶はもう二度と空を舞わない。
 僕は蜘蛛を巣から落とし、粉々に踏み潰した。

 
 
 

リラダン『殘酷物語(Contes cruels)』1883

 象徴的な手法を用いて実利主義的なブルジョア社会を告発する、短編小説集。

 

『ビヤンフィラートルの姉妹』
「金を稼ぐこと」を絶対善とする実利主義思想を揶揄した作品。清らかな恋愛や情熱は、金と結びつかなければ「身の堕落」と看做される。

もろもろの行為はかくのごとく形而下としては無差別だ。これを善となし悪となすのは人それぞれの意識のみである。

 『ヴェラ』
デ・ゼッサントをして「一つの小傑作」と云わしめた(『さかしま』14章をみよ)、ロマンチックな小品。ヴェラは、伯爵が奥津城に置いてきた鍵を使い、会いに来たのだろうか? 信念は現実を変容させる。

この宗教的な夢に身を捧げて加担するのか?服従するのか?

『民衆の声』
"Vox Populi, Vox Dei"、かかる格言は真理だ。但しこの"神"は盲より盲目である。

『二人の占師』
実利主義と結びついた当代のジャーナリズムは、文学者を求めない。
記事を売りたい文筆の士に求められるのは「俗衆の階級に帰化すること」。

文筆の士が採用すべき唯一の座右銘はこれですよ、「凡庸なれ!」ですな。

 『天空広告』
科学の発展と功利主義が結びつくときの滑稽さだろうか。

アントニー
私お気に入りの短編。
高級娼婦だろう。彼女のメダイヨンにあるのは、彼女の黒い髪で編まれた誠実の菫。年を重ね、彼女が価値を見出すのはどの男でもない、清らな純情。

 『栄光製造機』

ポートランド公爵』
超人間的な恋愛を描く。リラダンの好んだ主題。

『ヴィルジニーとポール』
純情無垢な少年少女の愛。しかし近代功利主義の腐敗は、これをも冒す。

あなたは、歓びにせつなく迫ったあなたの心臓に、その胸の鼓動を伝えてくる、身をふるわせて突然青ざめた少女の、唇に、あなたの唇を触れたことがありますか?

『最後の宴の客人』
ミステリアスな小品。面には分からぬ人間の残忍性。
晩餐に招待したエトランジーは何者であったのか、最後に明らかとなる。

「神様のお許しになる限り屡屡あなたが盲目であり聾である」というのは、多少「法律」に似ているのではありませんかな。

 『思ひ違ふな』

『群衆の焦燥』
フローベールお気に入りの短編。判断力の麻痺した群衆を描く。
スパルタの群衆の愚かしさにより、英雄「レオニダスの使者」は惨死した。だからといって、彼の栄光は少しも陰らない。蓋し真の栄光とは、かかる群衆の空しい讃美の上に築かれるものではないからだ。

『昔の音楽の秘密』
シャポーシノワ(打楽器の一種)は、古きフランスを象徴しているのだろうか? 辱めだ。

この中には旋律がありませぬ。これは馬鹿囃子だ!芸術もお終いだ!わしらは空虚のなかに転落するのであります。

『サンチマンタリスム』

芸術家も又人間であって脆くて弱い存在なのだ。しかし彼らは「弱さ」を決して顕わにしない。訳者斎藤磯雄氏をして名篇といわしめた作品。

 わが誇りとするところ、自ら省みれば少く、人と較ぶる時は多し。

『豪華無類の晩餐』
精神的田舎者の価値判断は「金銭」によって行われる。

「同じである…が、しかし、(金貨1枚のため)一段と豪華である!

『人間たらんとする欲望』
芸術家は空虚な存在となり易い。彼らは現実の「情念」に絆された経験に乏しく、その経験を経て「人間」たらんと欲する。しかし年老いた芸術家などは「幽霊」にしかなり得ない。

情熱!感情!ほんものの行為!ほんものの!これこそ適切に言って「人間」を構成するものなのだ!

『闇の花』
詩的な、また何とも分かり難い話。
『断末魔の吐息の化学的分析機』
社会進歩思想を嘲ているのか。

『追剥』
リラダンが抱く「第三階級(ブルジョワジー)」に対する認識か。臆病心、責任転嫁の才能などといって、その下賤さを笑っている。

ブルジョワは仕事つぶりにそつのない、陽気な連中である。しかし事徳義に関するや、止れ!

『王妃イザボー』
恋愛に密む残虐性。

わたくしからお受けになった接吻の数を証拠立てることがおできになって?夏のゆふぐれに飛んでゆく蝶々の数をかぞへようとするやうなものですわ!

『暗い話、更に暗い話し手』
分かり易いユーモアがある作品。神秘主義作家のイメージが先行するリラダンであるが、彼は現実をただ侮蔑していた訳ではないのだと気付かされる。身を以て体験する真の感動の貴さ。

君は悪い奴だ、君は唯我独尊居氏だよ!君は物事をいつもオペラ・グラスを通して見るのだ。人生に於ては何もかもが芝居なわけぢやないことを理解すべきですよ!

 『前兆』
死の「前兆」の話。黒いマントは死の象徴か。なぜ神父は黒いマントを頑なに渡そうとしたのか、夢でも現実でも。グザヴィエは死を免れたのか?

『見知らぬ女』
魂の世界で相思な2人も、現実で結ばれることはない。
「一切のものを変形させる『思考』」という言葉が出てきた。三島が辿り着いた「現実を変化させるものは行為のみ」という考えと対照だ。

彼等は信ずることができないのです、一切のものを変形させる「思考」を除けば、この下界ではすべてが「幻」にすぎないといふことを。

『マリエール』
アントニー』同様、ここでも「貞節」の問題が出てくる。だがマリエールからはアントニーのような高貴さは感じられない、心証は娼婦のままだ。
「新しいルクレシアだ」を解読しないと、リラダンがマリエールをどう描きたかったのか把握できない。

その蝶の翅のきらめく粉は、もう一度それを捕まヘようとする残酷な指に触れると必ず消え失せてしまふのですもの。

『トリスタン博士の治療』
寛大、信仰、無私無慾、不滅の霊魂は「時代遅れになって殆どその意味も発見し難い」観念。人類は最早これらに無関心。

諸君の無関心は…もはや限界を知らぬ。

『恋の物語』
詩篇。「眩惑」と「贈物」はフォーレが歌を付けている。
『幽玄なる回想』
祖先の夢に自分もまた生きる。リラダンの情懐の反映か。
『告知者』
英雄譚物(と私は勝手に名付けている)

asphyxiation 窒息
売笑婦 売春婦の類語
胼胝(たこ)
窺窬する 身分不相応なことをうかがい望むこと
鉞(まさかり) 斧のこと

一揖 軽くおじきをすること
傍白 内心のつぶやき、脇台詞
劈頭を飾る 最初を飾る
鬻ぐ/販ぐ(ひさぐ) 売る
乳光色(にゅうこう) 白色のぼんやりした光
奥津城(おくつき) 古い墓

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ヴィリエ・ド・リラダン(Comte de Villiers de l'Isle-Adam)1838-89
 ドールビイやブロワと並び、超自然主義(supernaturalisme)に分類されている作家。「現実と夢の狭間」でもがいた芸術家だと私はみている。彼の作品の根底には、実利・実証主義万能に走るブルジョア社会嫌悪がある。彼は小説、詩、劇を通じて霊性を探求した。彼は創作の集大成『アクセル』で、現実に対する夢の勝利を描き出した。

 

バタイユ『マダム・エドワルダ(Madame Edwarda)』1941

 筋らしい筋のない、ヌーヴォー・ロマンの先行作品というべきもの。男と娼婦の、啓示的な一夜の物語。バタイユは、『聖なる神』という総題のもと、エロティシズムを主題とした三部作を構想していた。本作はその第一部である。

 快楽と苦痛、すなわち性と死は根本的親近性を持っており、歓喜は死の眺望のうちにこそ見いだされる。バタイユの哲学を凝結した象徴的作品。

 正直なところ、あまりよく判らなかった。

 

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ジョルジュ・バタイユ(Georges Bataille)1897-1962
「私は哲学者ではなく、聖者であり、狂人なのかもしれない」

『タッカー(Tucker: The Man and His Dream)』1988

 『ゴッドファーザー』シリーズのフランシス・フォード・コッポラ監督。
 第二次世界大戦後のアメリカに実在した、スタートアップの自動車メーカー「タッカー社」が、革新的なアイデアと実行力で優れた車を生み出すも、成果を妬む大手に潰されるという話。古き良き時代を、アメリカが失墜した1980年代の視点を持つコッポラが描いている。

 最後、タッカーが聴衆を前に正義を弁論して聴衆の心を動かすシーンなど、『スミス都へ行く』以来のアメリカ映画の伝統を思わせる。いろいろな意味で寒気がするくらいにアメリカン・ムービーだった(褒め言葉)。

ユイスマンス『さかしま(A Rebours)』1884

 物語は断片的で、殆どは主人公デ・ゼッサントの芸術論。文学、絵画、室内装飾、花、香水等、多岐にわたって彼のダンディズムが披露される。悍ましいブルジョワ社会から逃れて人工的耽美の世界に沈んだデ・ゼッサント。しかしそれにも嫌気が差すと、彼は漠とした超越(=カトリシスム)を望むようになる。それが不可能にも関わらず!

 病的に理屈がましくて、気持ち良いものではない。彼に共感したくもない。それでも僕という人間は、デ・ゼッサントの出来損ないに違いないと思うのだ。僕はデ・ゼッサントのように余暇と財産を持たないし、教養も思考力も足りていない。だが僕は、確かにデ・ゼッサントと同じ過程を歩んでいる。その類似に驚いている。「フランス文学は人間を描いている」と何かの教科書に書いてあったが、全く言い得ている。

 

このようなブルジョワの君臨するところ、やがてはあらゆる知性が押しつぶされ、あらゆる誠実が嘲笑され、あらゆる芸術が死滅する運命を見るのは必至であった。(...)ええ、いまいましい、それならいっそ、社会なんぞ崩壊してしまえ! 老いぼれた世界なんぞ死んでしまえ!

 

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ジョリス=カルル・ユイスマンス(Joris-Karl Huysmans)1848-1907
『マルト、一娼婦の手記(Marthe, histoire d’une fille)』で自然主義作家として出発したが、生来神経質で、俗悪な現実に対する嫌悪の念が強かった彼は、次第に神秘の世界に関心を向けた。