Mon Cœur Mis à Nu

「美」といふものは「藝術」と人間の靈魂の問題である

スピルバーグ『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン(Catch Me If You Can)』2002

スティーヴン・スピルバーグ監督、ジョン・ウィリアムズによる音楽、レオナルド・ディカプリオトム・ハンクスのW主演、豪華。さして互いを知らない女とのデートで観るのに適した、feeling goodなハリウッド映画。かうした類の映画に感想を求められると困る、どのやうにも話を展開できなくて。

 

かうした類、とは?

・特殊な「個人」を描く「物語」であること。

・comedicであること。

・Feeling Goodであること。

 

 

トッド・フィリップス『ジョーカー(Joker)』2019

巴里帰りのフライトで視聴、何とこれ、金獅子賞である。

かうした作品が世に生み出され、ウケると云ふ現実。比較的上手く社会システムの回つてゐる日本に生きてゐると気付き難いのかも知れぬが、世の中、かほどに惨めな人らで溢れてゐるのだとしたら、その現実に目を背けてはならない。

社会格差、忘れられた人々、ヒルビリー・エレジー。かうした人々への訴求力を有するトランプ氏への支持率は、全米で5割を超えてゐる(バイデン氏は3割)。トランプ=ヴァンスは米国の多数派の支持を受け、勝利すべくして勝利した。

だが惨めな生活を強いられ、現実世界を厭うてゐるとして、『ジョーカー』で表現されてゐるやうな露悪趣味に快楽を覚えるやうでは、あまりに程度が低い。奴輩の惨めさには、それなりに理由がある。つまり彼らの惨めさは、彼ら自身の魂の低劣さに由来してゐるといふことだ。新宿の喫茶店で聞えて来る会話に耳を傾けてゐると、そのことがよく分る。

20250111日記_パリにて(4) 古書肆クロード・ビュッフェ


サンシュルピス近く、19世紀仏文学専門書肆「クロード・ビュッフェ」は健在

 

巴里は晴、気温は氷点下。明日で長き羇旅も了はる。もう暇を持て余してゐるので、平生は機会が無い近現代美術の鑑賞に出かけた。「ブルス・ドゥ・コメルス」のピノー・コレクション、それにパレ・ド・トーキョーのパリ市立近代美術館。

私とて、誰かが生涯を懸けて生み出した作品の事を悪く言ひたくない。だが近現代美術とやらに対し、敢へて時間と金を費やして鑑賞し、真面目な顔をしてあれこれ評価を下し、あまつさへこれを褒めそやす人間は曲学阿世の徒だ。例えば以下の画を見て欲しい。これを人類の歩み、芸術史に連ねる事に屈辱を感じないか?私は人間性への冒瀆だと思ふが、如何?

 

 

午后、サンシュルピス近くの古書肆「クロード・ビュッフェ」を訪ねる。巴里滞在中、三度店の前のアベニューを通つたが、いつも鎧戸がおりてゐたので、もう店を畳んで了つたものと思つてゐたが。ボン・マルシェ近くまで来て、よもやと思つたのが僥倖であつた。

店内には齢六十程の品の良いマダムが一人、一寸意外。「何をお探し?」と私に話しかける。「ボオドレエルかヴィリエ・ド・リラダンがあれば見たい」と応へる。「ボオドレエルと、どなた?」。私は「ヴィリエ・ド・リラダン、『アクセル』の作者です』と繰り返す。マダムは腑に落ちたやうな顔をして、優しく教へて呉れた。「あなたは彼の名前を早く発音し過ぎですわ、よいこと? ヴィリエー・ドゥ・リィール・アドムですよ」。

以後私が流暢な英語話者になつた事は想像できるだらう。マダムは陳列窓、書棚、はた堆く積まれた本の山から、迷いなく四冊を撰び出して、私の前に並べた。ボオドレエルは『惡の華』が二冊、リラダンは『處女詩集』と『エレン』であつた。「この『處女詩集』は初版で、とても貴重なのものですよ」。まさか!1860年頃だつたか、リラダンが身代を崩して支度した三千フランもて自費出版した詩集が目の前に!流石に藝術の都。尤も千五百ユーロの値札附、東邦の貧しき書生には手の届かぬ代物ではあつたが。

価格に関係なく私の気に入つたのは、版画附き、緑の布地で装幀されたB6横判上製の『悪の華』。これを日本に持帰りたい旨マダムに告げると、「おゝジャポン!私は何度か訪れたことがあるのですよ。奈良でみた藤棚(Wisteria Trellis)の美つくしかつたこと!」。春日大社だらうか。ここから思はぬ日本談議に花が咲いた。聞けばこの書肆には、日本から多くの教授や学生が、仏文書籍を求めてやつて来るさうだ。マダムに指摘されるまで気付かなかつたが、本棚の上に鎮座し給う「こけし」も、さうした人の贈り物だと云ふ。

マダムは紙で丁寧に『悪の華』を包装し、書肆のシールを張つて呉れた。そして名刺を添へて、「あなたの研究に必要なときは、いつでもご連絡あそばせ」と、親切至極。ではムシュー、Je vous souhaite une bonne journée。別れを惜しみつつ私は答へた、I wish you a very good evening, Madame!

 

その後、サント・クロチルド教会にてオルガンコンサート、土曜の晩のミサに出席。宿に戻りてブログ執筆。マダムが丁寧に包装して呉れた『悪の華』は、帰国の時までそのままにして置かうと思ふ。

 

 

 

 

 

 

 

20250109日記_パリにて(3)


サンルイ島のセーヌ河岸にて

曇、寒し。セーヌ河岸に寓居してゐる所為で、湿度が癪に障る。ブーツに黴が生えた。昨日はサン・ジェルマン・デ・プレの裏手にあるウジェーヌ・ドラクロワのアトリエに、本日郊外セーヴル(言はずと知れたセーヴル焼の生産地)にある国立陶芸美術館まで遠征をした。トラブルも旅の一部と言へども、巴里のpublic transportationにはうんざりしてゐる。

古色蒼然たる石造りの城の玻璃窓に感動を覚えなくなる頃、或いは英語の通じぬ事に嫌気が差して来る頃、私は帰国後の事を考え始める。フランスで見聞した事柄を、どう日本に持ち帰るかに、思考が移る。

思ふに、西洋のものを唯東洋に移入する事は、さしたる価値が無い。「完璧」に移入する事など不可能で、劣化物にしか成り得ない。それは例へば、巴里のアパルトマンのファサードに憧れて、それと同じものを日本に建築しようとしても、素材の調達、職人の手配、気候の違ひ、はた建築基準法で困難を見て、妥協が積重つた結果、醜悪なる模造品が出来上がるやうな事である。

肝要なことは、西洋の美の秘鑰を抽象のレベルで把握し、それを日本の生活様式に落とし込む事である。一元性よりも二元性が「いき」である事は、九鬼周造が書いてゐる。我が国の貧窮の美学の裡に、他者が気付くか気付かぬかの程度に、路易王朝の優雅を表現する事ができるか。そこに懸かつてゐる。

 

post-scriptum: 下呂温泉の水明館に2週間逗留する方が、精神的にも金銭的にも良いのでは。

 

20250105日記_パリにて(2)


サン・ラザール驛近くの楽譜店にて

 

本日はイエズスの御名の祝日(Fête du Saint Nom de Jésus)、巴里は微雨。旅の道づれの相手に疲弊して来た所。醜い「生活」の象徴のやうな女、私は古りし都の歴史に想いを馳せ乍ら、夢うつつに逍遥してゐたいのに、彼女の存在がそれを許しては呉れない。脚が痛い。獨りになりたい。

 

サン・ニコラ・ドゥ・シャルドネ教会でミサに与る。歌はれたのはキリアーレ第4番"Cunctipotens Genitor Deus(全能の父なる神)"であつた筈、日々愉しいのは、日本で決して歌はれることのないミサ曲を聴けること。我が国のカトリック教会は22年の12月にミサ曲を捨てて了つたから。

 

土曜の晩はサント・クロチルド教会で主日ミサに与つた。かのセザール・フランクが、かのシャルル・トゥルヌミールがオルガニストを務めた教会の、カヴァイエ=コルの設計によるオルガンの楽の音は、巴里でも随一だと私は思うてゐる。

 

実は1年前の同じ日、私はサント・クロチルドでミサに与つてゐた。その時に聴いたミサ曲と閉祭曲は忘れ得ず、今一度聴かばやと祈念してゐた折柄、果してそれが叶へられたのであつた。

如何にも仏蘭西的な洒脱さを具ふるミサ曲の旋律、これは誰の作曲だらう、他の教会では聴かないから、教会の現オルガニストによるものか知ら。どこかで楽譜は手に入らないだらうか。それに閉祭曲、主の御公現を控へ、東方三博士の礼拝を謡つたフランスの民謡"La Marche des Rois"の調べに基づくオルガニストによる即興、雄渾なる大音楽。

 

あゝ、なんといふ奢侈であらうか。日毎かうした至高の音楽に浴みすることが出来るなんて。あと一週間ばかり猶予がある巴里滞在。サント・クロチルド教会のこと、またここで歌はれるミサ曲のことは研究して、レポートにしたいと思うてゐる。

 

20250103日記_パリにて

 

諺に旅は道づれと申し候へ共小生にとりては旅の道づれ程堪へがたきものは無之候。

 

昨年末から巴里に遊んでゐる。1月の中旬までゐる予定。昨年は可成り詳細に旅の様子を記したが、今年はその気はない。書く気が興らないのに書く必要は、当然の事乍ら、無い。

 

ノートルダム大聖堂を見たり、ヴィリエ・ド・リラダンを詣でにペール・ラシェーズに展墓したり、またヴィリエ・ド・リラダンの「復活の像」を拝みに、マレのカルナヴァレ美術館を訪うたり(現在展示されてをらず無念)。

 

本日は聖ジュヌヴィエーヴの祝日、彼女はパリの守護聖人であるためか、平日のミサ乍ら参列者は多かつた。キリアーレは2番"Kyrie Fons Bonitatis(主よ、善なる泉よ)"、一級祝日に歌はれる荘厳なミサ曲。

 

矢張り「音」が私を昂揚させる。食事にファッション、これらは東京で十分に上等なものが手に入るから、重要事ではない(昼餉、スズキのフィレ・ソースヴィエルジュに舌鼓を打つた癖に)。だが音は?東京の教会に、天使のラッパさながらの嚠喨たるオルガンの音が響くか?東京の街に、日毎、人々に修身と敬虔の念を起させる晩鐘のどよめきは聴こえるか?

 

音は、思想や観念を明示、具体に説明するといふことをしない。それなのに、それが可能である書物や絵画よりも、率直に私の内奥まで浸透し、私の心をゆさぶるのだ。

 

 

 

アイヴォリー『ハワーズ・エンド(Howards End)』1992

主の降誕の日を過ぎると、どの仏蘭西料理店も休暇に入るので、私は食事に困る。だから私は仏蘭西料理に在り着くため、明日仏蘭西に渡る。何のことやら。

 

ジェームズ・アイヴォリーの『ハワーズ・エンド』、かの名作を2年ぶりに観返す。「今、物質は精神の高き玉座を簒奪せむと...」、こんな詩がある。アイヴォリーの作品は進歩主義者の、楽観主義者の、ブールジョワの、すなはち近代人の醜さを剔抉する。それと同時に心の高潔さ、芸術性、すなはち人間性を保持しようとする、時代遅れの人間が破滅して行く様を描破する。その舞台として19世紀の英国はうつてつけと云ふこと。どちらの生き方が正しいかについて、人類の間で一致した回答がでることはない、銀行家と詩人が交はることは「不可能」であるから。尤も後者が絶滅した後の事は知らぬが。

 

現実と夢想の狭間に沈む人類の凄惨さを描きながら、彼の作品は、その映像、装飾、それに音楽と云ひ、20世紀の映画史上比類なく美くしい。この諷刺<アイロニー>がまた面白い。

 

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デヴィッド・フランケル『プラダを着た悪魔(The Devil Wears Prada)』2006

晴、寒し。雑司が谷を歩いてゐて、厳冬の灰色のなかに、柔らかい陽光に燦然と耀いてゐるのは何かと、傍らに寄つて見てみれば、そはダイヤモンドリリー、桃色のリコリスである。あまりに鮮明で強烈な画であつた。暫く忘れ得そうもない。

 

プラダを着た悪魔』、私らしからぬ映画を鑑賞。そもそも映画を観るのが久しぶりである。私もアンドレアと似たやうな仕事をしてゐるので、多少の面白さを覚えた。

 

だがアンドレアと上司ミランダとの訣別を見て、根本的に相容れぬと思うた。すなはち、西洋人の「個」に、理解が追い付かなくなつた訳だ。

 

なるほど、私も強烈な自我の所有者であるに違いない。さもなくばもう少し社会と仲良くできるだらう。だが職務上の責任、こと主君との関係に於て、私の個など雲散霧消する。滅私奉公に陶酔する存在、そんな大和民族の血を、私の裡に感じ取つたのであつた。どれほど西洋的教育を受け、どれほど西洋的芸術・哲学に関心を持つてゐようと、生得的なものは変はらぬ。そんな事を思うた。

20241213日記

晴、寒し。藝術愛好者が人間性を失ふてふアイロニー

 

私は護国寺西の交叉点にゐた。上のはうから2人の男が歩いて来た。青年といふには弱弱しく、少年といふには逞しい感じがした。1人は盲か、目を病んでゐるらしく、もう1人を頼り、腕を組んで歩いてゐた。2人は兄弟か、はた友人か。それさへも明らかではなかつたが、すべての十代の特権として、恋愛のことを愉しげに語り合ひ乍ら歩いてゐた。

交叉点の角には焼鳥屋があつた。2人はその前を通るとき、少し逡巡する様子を見せたが、そのまま歩いて去つて行つた。金がないといふ言葉が私には聞こえた。だが暫くして戻つて来た。彼らは焼鳥屋のケースの前で悩んだ末に、モモとタンを1本ずつ註文してゐた。

 

この光景は、何故だらう、私の胸を搏つた。何か美くしいものを見た、といふ気がした。汐留美術館でベル・エポック展を見た後で、ジョルジュ・ルオーのボオドレエル解釈は間違つてゐると御託を並べる積りであつたのに、そんな事はくだらない事のやうに思へたのだつた。

 

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長鋏帰らんか、食に魚無し 地位や待遇に不満を言うこと
塩辛声 しわがれ声
上御一人 天皇、君主
just the way it is 
面従腹背
厨子(ずし)
意気阻喪(いきそそう) 意気が挫けて元気がなくなること
千日小坊 秋に紫の小さな花を咲かせる多年草
オパンカ スリッポン形式、ローヒールのバルカン半島の履物
白皙(はくせき) 肌の色が白い様
暗々裡(あんあんり)
剔抉(てっけつ) 突っ込んで暴き出すこと
轗軻不遇(かんかふぐう) 世に受けられず生き悩む様
渺茫(びょうぼう) 広々として果てしない様
玲瓏(れいろう) 玉などが透き通る様に美しい様、「玲瓏たる山月」
ベルルッティ(BERLUTI) 1895年にパリで創業した高級紳士靴ブランド
amour-propre 自尊心、自己愛
毫未(ごうまつ) わずか
雄渾(ゆうこん) 力強くよどみない様、「雄渾な詩文」
昂然たる(こうぜん) 自信にみちて誇らしげな様
トマス・デ・アルケマダ 15c後半、スペイン異端審問官
扼殺 手で首を絞めて殺すこと
枕頭の書(ちんとう)
サテン 朱子織の布
ケッパー アブラナ目のフクチョウボクの実、ピクルスにする
ネリネ(ダイヤモンドリリー) 冬にピンクの花を咲かせるヒガンバナ

20241210日記

晴。先の週末は久しぶりにゆつくりできた、昼餉のセルリ・ラーヴのポタージュは大変美味であつた。小石川植物園を訪問、知らぬ間に秋の終つて了つてゐたのには落胆した。仕事も落ち著ゐたので、今週金曜には汐留美術館に 'Paris and La belle Epoque' なる展示を見に行かうと思うてゐる。年末の巴里旅行、ノートルダム・ド・パリ、ルーヴルのドラクロワ「民衆を導く自由(La Liberté guidant le peuple)」が再び公開されたとの由、見るのが愉しみ。バルトークのヴァイオリン協奏曲二曲に、ヴィオラ協奏曲、勧められて鑑賞、良い。