Epistula ad mē

「美」というものは、藝術と人間の霊魂の問題である

2021.11.30日記

11月も終った。もうアルスターコートの季節。

近頃読んだヘッセの言葉は、私の心を打った。

 

「神がわれわれに絶望を送るのは、われわれを殺すためではなく、われわれの中に新しい生命を呼びさますためである。」

 

高い理想を持ちながら一度は挫折するも、絶望的な混迷に長くは留まらず、見習工をしながら学問を続け、自己を実現したヘッセの言葉。 この言葉を忘れたくはないものだ。 私は今まさに絶望の中にある(死に至る病とは絶望である!)。死んだように毎日を生きて、唯一の娯楽といえば、寝る前に過去についての空想を膨らませること。 私もせいぜい学問を続けることだ。無駄にはならぬさ。

ヘッセ『車輪の下(Unterm Rad)』1905

周囲の大人からの一方的な期待を背負い、機械的に応え続けてきた少年。最も感じやすい危険な少年時代を壓迫のうちに過ごした彼は、やがて心を壊す。彼は事故死した。しかし、それは偶然ではなく必然的な死であったに違いない。

痛々しく寂しい。人間が生涯を生き抜くためには、幸福の記憶が必要であって、それが缺けていると、どこかで躓いてしまうのだろう。

私自身の姿と重ねて読んだ為、その心痛は猶更であった。文官登用試験に備えていた頃、私にも家族の期待に応えねばならぬという気持があった。頼る相手もなく孤独な日々だった。私の自尊心が弱音を吐くことを禁じていた。ある日頭がおかしくなった。文章が読めなくなった(あれほど得意にしていたのに)。参考書の記憶が全くできなくなった。途方に暮れた。私は試験から逃げた。そして今、望みもしない人生を、死んだようにして過ごしている。

 

学校と父親や二、三の教師の残酷な名誉心とが、傷つきやすい子どものあどけなく彼らの前にひろげられた魂を、なんのいたわりもなく踏みにじることによって、このもろい美しい少年をここまで連れて来てしまったことを、だれも考えなかった。(...)いまやくたくたにされた小馬は道ばたに倒れて、もう物の役にもたたなくなった。(p.171)

 

ゲーテ『若きウェルテルの悩み(Die Leiden des jungen Werthers)』1774

岩波の竹山道雄譯を読んだ。
良い本だ、人にも薦めやすい。

 

愛してはならぬ女を愛して、苦しむウェルテル。ロマン派時代の、人間の自我への目覚めを、この一青年の懊悩を通してみることができる。

不徳な描写もあるはあるが、牧歌的、道徳的な雰囲気。そう、健全なのだ。健全な若さ故、情熱を持つが故の苦悩。ウェルテルは、私が普段読む小説の主人公には無いものを持っている。

『若きウェルテルの悩み』が無ければ、漱石は『こゝろ』を書けなかったのではなかろうか。

ウェルテルの自殺と、ヴィリエの『サンチマンタリスム』のマクシミリアン・ド・W伯爵の自殺とを較べてみた。なんたる相違。

 

「わが神!わが神!なんぞわれを捨てたまいしや」と叫ぶこそ、被創造物たる人間の声ではないか?それだのに、この私がこの叫びを発するのを恥じることはない。そのような瞬間を思って苦しむことはない。諸天を布のごとくに捲く力のある、かの神の子さえ、それはまぬがれなかったことであるものを! (p.158)

 

長い夜だ。『ヴァルキューレ』を聴いている。

ワイルド『ドリアン・グレイの肖像(The Picture of Dorian Gray)』1890

本作品は退廃的な哲学を完成させる為の書にあらず、むしろ倫理的な側面が強いように思われる。肖像画はドリアン・グレイの良心、物語の結末が示すのは、モラルの勝利に他ならない。そういう意味で本作は、『サロメ』ではなく、『幸せな王子』と同じ系譜にあるのかもしれない。

 

今夜は『ラインの黄金』を聴いた。

2021.11.22日記

東山を北から南へ、法然院から南禅寺まで。雨であったのが却って良かった。静かな午前、散歩を心置きなく愉しめた。順正で昼餉。向いの席には日本髪をしたうら若き4人の娘。舞妓さんだろうか?その装いの趣味の良さ(安着物の観光客とは好個の対照!)と、立居振舞いの見事さは、日本舞踊を嗜んでいる人のそれであった。何とも「美くしかった」。私が「美くしい」という言葉を用いる対象は、芸術と霊魂に限られている。つまるところ、彼女らは芸術的であった。

 

美くしさに心を動かされるとは、ふと目を閉じ、この世界を創造し給うた主に感謝を捧げたくなる気持を抱くこと。全く京都に居る時に限って、この感覚に浸ることができる。

2021.11.17日記

快晴、暖かい。
六義園へ行く。風流なことなんて何もない。こんなものを有難がって、東京の人間の田舎臭さにはほとほと呆れる。

夜は『タンホイザー』を聴いた。

 

怯懦(きょうだ) 臆病で気の弱いこと
爾余(じよ) それ以外
端倪(たんげい) 物事の成行を見通すこと「端倪すべからざる」=推し量れないほどの
大童(おおわらわ) なりふり構わず、夢中になって
瘧(おこり、ぎゃく) マラリア、熱病
リエット パテに似たフランス料理、豚肉をラードで煮込んだもの
羈絆(きはん) 行動する人の足手まといになるもの、係累、しがらみ。
韜晦(とうかい) ミスティフィケーション
ファエンツァ 陶器で有名なイタリアの街
clergy 聖職者
laxity だらしのなさ
irascible 怒りっぽい
make off 急いで去る
deficiency 欠乏
anteroom 次の間
apprehensive 不安な
impertinent 無礼な(rude)
defer 延期する
dandizette 女ダンディー
錚々(そうそう)たる
Esq. Mr.の意、やや古い表現
wrath 激怒
contrived 不自然な、嘘っぽい
congenial 気の合う
bestow 授ける
cipher 暗号、暗号を解く鍵
in queer street 金に困って "it looks like queer street"
lethargy 眠気を伴う無気力状態
recherche 趣向を凝らした
pry 詮索する "prying expression"詮索好きそうな顔
lawn 芝生
meager 貧弱な
sentinel 歩哨
asylum 亡命者
head over heels すっかり、完全に
masterful novelist 文豪
annulment 無効
destitute 貧困の
avenge 復讐する
emissary 使者
恬淡(てんたん) 物事に執着しないこと




2021.11.15日記

「一度キリストに出逢った者は、二度と十字架の影から逃れることはできない」

 

このような趣旨の格言をどこかで見たことがあるのだが、思い出せない。
誰の言葉か? 正確な言い回しは?
気になって眠れない。

 

次の水曜日は展覧会に行くか、六義園に行くか、どうしようか。

堀洋一『ボウ・ブランメル(Beau Brummell)』1979

生涯が美しくあるためには、その最期は悲惨でなければならない

                         オスカーワイルド

 

牧神社上梓。
ボウ・ブランメルの伝記。ちょっとした服飾史を兼ねている。
内容の殆どが先行研究の受売りで、とても学術論文には為らないだろうが、ブランメルパブリック・スクール時代から、その栄華の極みとカーン(Caen)での客死まで、よくまとまっている。良い娯楽書だった。

本書の他、何点かダンディズムについての文献を残している著者であるが、全く情報がない。研究者ではないし、実業家でもなさそうだ。後記にて斎藤磯雄氏や生田耕作氏に謝意を示しているが、面識はあったのだろうか。
堀洋一氏、本物の好事家<ディレッタント>のようだ。

 

以下、引用

 

ダンディズムとは、

「人格の藝術」である。

 

彼は、「自由である」ことと「己れの生涯を挙げて美の崇拝のために捧げる」ことを自らに誓ってオクスフォードを追われた、あの詩聖シェレーのごとく、なによりも不羈独立を、なかんずく「独創性」を重んずる人間であった。

 

中庸にして控え目な優雅、皮肉や機知や逆説の天才、なかんずく韜晦の趣味。

 

シャルル・ボードレールをして「完璧な見繕いは、絶対的な簡素さのなかにある」と言わしめた、その簡素美、単純の美。

 

「わたしが社交界でとりわけ既婚女性に親しくするわけは、彼女たちを通じて立派な知り合いができるからだ。それに相手をしていても、独身女性よりはるかに面白く、またそれほど退屈しなくても済むからね。」

二十そこそこのブランメルの言葉である。

 

彼の恋愛並びに愛の告白は、まさに彼その人のようにファッショナブルで優雅なものだったが、結局のところ、それは「つくりものの涙」同様、頗る技巧的、人工的なものでしかなかったのである。

 

今際の際、

彼の脳裡にうず捲くものは、ただに空虚と憂鬱と、悲哀と感傷と…くわえて言いようのない孤独感、挫折感のみでしかなかった。「実践美学、自己の藝術化」を全うするため、自らに課した「優雅の基準」を固守せんと、万難を排して立派に闘い抜いてきたにもかかわらず。

 

 

 

 

 

『田舎司祭の日記(Journal d'un curé de campagne)』1951

ロベール・ブレッソン(Robert Bresson)監督作。早稲田松竹で観賞。
云わずとしれたジョルジュ・ベルナトスの同名小説を下敷きにしている。

 

フランス北部の小さな村に赴任した若い司祭。
信仰が形骸化する時代。村人からは受け容れられず、信仰への確信も揺らぎ煩悶しつつも、彼は神と向き合うことを辞めず、己が使命の全うを試みる。
胃癌に冒された彼は、死の床でこう呟く。
「だから何だいうのだ? すべては聖寵である。」

 

ストーリーに対し考察を遺すのはあまりに難しい。そんな重荷を負ってしまえば、このブログを投げ出してしまいそう。だからブレッソンについて一言二言。
重厚な管弦楽で映画ははじまる。枯れ木を踏みしめる音、ドアの軋む音、水を注ぐ音。ひとつひとつの「音」に対する配慮が作品に緊張を生み、全体として「静」のイメージを残す。映像にしても、あちこちカメラが動く訳ではなく、人間の表情を撮り続ける。本作品のこうした禁欲さは、ブレッソン他作品と共通しているのではないかと思う。

ダンディズムとは何か? 生田耕作『ダンディズム 栄光と悲惨』1995

中央公論新社。底本は1975年に他社から上梓された評論。典雅の士ジョージ・ブランメルアネクドートを持ち出して、ダンディズムを問う。
ブランメルが体現し、ボードレールとドールヴィイが理論化した「ダンディズム」。さながら神の愛を体現したイエス・キリスト福音書記者たちのロールプレイのよう。この3者の「在り方」に関する哲学(=ダンディズム)のうち共通のもの、異なるもの、特に後者に注目して読むと面白い。

 

なお著者は「ダンディズム」の不文律2箇条を導き出すことに成功している。

一、立居振舞、衣服など、個人の外観を特徴づけるすべてのものに、異例の重要性を割り当てること。ただし仔細は各自の個性的刷新にゆだねる。

二、「不感無覚<ニル・アドミラリ>」というダンディズムの理想への努力。

上記2点を、不断の意志と、きびしい自己統御を通じて達成し、人工的境地に至ることが、曰く「ダンディズム」である。

 

【引用】

ダンディズムとはなにか? 当初においてはかなり単純な一現象であったものが、漸次複雑な形態に進化し、その間には様々な種類の実践者、すなわちダンディの群を生み出すに至った

 

ブランメルの衣装哲学

町を歩いていて、人からあまりまじまじ見られるときは、きみの服装は凝りすぎているのだ

 

ボードレールの女性観
著者も指摘しているが、ダンディにとって女性は、卑俗な誘惑の権化に他ならない。

女性は自然である、すなわち唾棄すべき存在である。要するに女はつねに野卑である、すなわちダンディの対極だ

 

著者、バルベー・ドールヴィイについて

バルベーの多血質の会話と、けばけばしい装いは、〈着付けのいい男は人目についてはならない〉と言ったイギリス紳士とは、なんというかけ離れようであろう。(...)個性的な型のダンディズムをバルベーは自分のうちに創り出したのである。(...)しかし役柄は変わったとはいえ、自らに課した理想的形態を追い求める点においてはいささかも変わりはない。