Epistula ad mē

美というものは芸術と人間の霊魂の問題である

中島敦『山月記』1942 感想文

醜悪な現実から目を背けるため書物を読むことが、良い習慣な譯がない。深く夢想に涵れども、一歩書斎を出れば、それは一撃のもとに瓦解する。失望を重ねるうち、人の性は彌々狷介となる。私もそうだ。
だがそんな私が自尊心を弑して真っ当に社会生活を営む、或いはそうせんとする理由は、畢竟高校生の砌、国定教科書で読んだ『山月記』、詩人李徴の運命を怖れるからに違いない。

 

詩人李徴は一夜にして虎と化す。しかしなぜ獣と化したかについては、心当たりがあると言う。自身が内心に抱く「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」とに、外形が呼応しただけのことだと。

しかし畜生と成り果てた後にも、李徴の詩人としての自負心が健在であることは、随所から読みとれる。彼の発言は、自嘲を弄しながらも、結局は自己弁護の塊である。自負心のない者は、己の心を「宮殿」に喩えたりしない。

 

の珠に非ざることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨かうともせず、又、の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出來なかつた

 

今思へば、全く、は、己のつてゐた僅かばかりの才能を空費して了つた譯だ(...)己よりも遙かに乏しい才能でありながら、それを專一に磨いたがために、堂々たる詩家となつた者が幾らでもゐるのだ。


李徴は気付いているだろうか? 己の発言に凡人たる所以が現れていることを。端的に言えば、大言壮語を弄する割に行動が伴わない、凡百の徒に共通してみられる性格である。

虎と成り果てた今、己は漸くそれに氣が付いた。それを思ふと、己は今も胸を灼かれるやうな悔を感じる。(...)どうすればよいのか?己の空費された過去は?


彼は斯く言う。しかし仮に人生をやり直せるとしても、彼には孤独で凡庸な似非詩人として刻苦する以外の路を選択できまい。

 

さて国定教科書が『山月記』を教材として採用する趣旨は、奈邊にあるのか。少年たちをして、鍛え上げられた名文に親しませるため?さもあろうが、ここは敢えて否と云おう。私はもっと残酷な理由をみる。それは「才を抱く者」と「才を抱くと思込む者」との選別にある。
本作品は後者に対して深い羞恥と絶望とを與える。後者、すなわち己の夢想を現実のものとするenergyに缺けた凡庸の徒は、この書物の前に躓き、「真面目に」生きようという気を興す。本書は「死に至る病」に対する予防接種の効果を果たしている、というのが私の見解である。