Mon Cœur Mis à Nu / 赤裸の心

「美」といふものは「藝術」と人間の靈魂の問題である

20221023日記_「新しいミサ」について

晴れ。
主日ミサののち教会の掃除。ビストロで食事を済ませ、秋闌ける小石川植物園を訪れる。篠懸樹の葉隠に憩いて、微睡みながらブラームスピアノ協奏曲第2番を聴く。私の通った小学校に篠懸の森があったことを想い出し、郷愁に似た感情を抱く。暫し陶酔。

 

帰り、『萩原朔太郎詩集』を購入しようとジュンク堂に寄る。昨日の歌曲が大層よかったものだから。だが結局買わなかった。新字体のものしか見つからなかった。私は国語改革批判者などではないが、旧字体で書かれたものは、旧字体で読みたいと思う。殊に詩のように、作者の美学の結晶ともいうべき、本質的に繊細な文章ならば。後世の人間が勝手に新字体に直すことで、作品がまとう印象が変容することもあり得るのではないか。

 

ああ、もうひとつ言葉の問題があった。
今年の待降節からミサの式文が変わる。今回の変化によってミサ言語から文語が消える。「イエズス・キリスト」、「給へ」、「し奉る」といった表現がなくなる訳だ。また旧式文に曲を付けた髙田三郎の優れたミサ曲も歌えなくなる、のだろう。

はじまりは第二バチカン公会議以降のミサ国語化にある。この趣旨はラテン語を解さない「一般信徒への配慮」にあったのだから、今回の国語式文の現代化も、当然の帰結というべき。何より典礼秘跡省の認証はもう出ている。

一抹の寂しさはあるが、後戻りできない事柄に対しては、その変化が齎す良い側面に期待をしたいと思っている。