祖父に学位記を見せる。「貴方のお蔭です」と学位記を手渡したとき、祖父は「これが見たかった」と云って涙を流した。はじめて孝行ができたと思った。
夜、円山公園に桜を観る。やはりここの枝垂れ桜は一級であって、これをみなければ春を感ずること、とても能わない。
祖父に学位記を見せる。「貴方のお蔭です」と学位記を手渡したとき、祖父は「これが見たかった」と云って涙を流した。はじめて孝行ができたと思った。
夜、円山公園に桜を観る。やはりここの枝垂れ桜は一級であって、これをみなければ春を感ずること、とても能わない。
以前立てた計画をそのまま実行した。私の卒業旅行を兼ねた、『金閣寺』の舞台探訪。京都駅から山陰本線を使い、綾部で舞鶴線に入る。西舞鶴からは、本来歩くべきところであるが(途中まで挑戦はした)、宮津線(宮舞線)に乗換。丹後由良で下車。丹後由良から裏日本の海を肌で感じた。
「駅、汽笛、朝まだきの拡声器のだみ聲の反響までが、同じ一つの感情をくりかへし、それを強め、目もさめるばかりの抒情的な展望を私の前にひろげた。」
「汽車は昔病んだ父と一予に見た群青の保津峡に沿うて走つた。」
「列車の車掌が次の駅の『西舞鶴』の名をふれまはる聲に私は呼びさまされた。あわただしく荷を担げる水兵の乗客も今はなかった。」
「だから私は由良へ行かうとしてゐた。(…)西舞鶴から由良へゆく道は、ものの三里もあったが、私の足はうろ覚えに覚えてゐた。」
「河口は意外に窄い。そこに融け合ひ、犯し合つてゐる海は、空の暗い雲の堆積にまぎれ入り、不明瞭に横たはるてゐるだけである。」
「それは正しく裏日本の海だつた! 私のあらゆる不幸と暗い思想の源泉、私のあらゆる醜さと力との源泉だった。突然私にうかんで来た理念は、柏木が言ふやうに、残虐な想念だつたと云はうか? とまれこの想念は、突如として私の裡に生れ、先程からひらめいてゐた意味を啓示し、あかあかとの内部を照らし出した。まだ私はそれを深く考へてもみず、光りに搏たれたやうに、その想念に搏たれてゐるにすぎなかつた。しかし今までつひぞ思ひもしなかつたこの考へは、生れると同時に、忽ち力を増し、巨きさを増した。むしろ私がそれに包まれた。その想念とは、かうであつた。
『金閣を焼かなければならぬ』
私が溝口のやうに想念に搏たれることはなかった。私が得たのは慰めであった。裏日本の寂しい海は私の仲間であった。
三島作品中、どれが最高傑作かと問われたらば、私は『奔馬』を挙げる。本作品に描かれているのは三島自身の感情の推移。最晩年の三島の夢と飯沼勲の夢とは一致するのではないか。此度で4度目の読了だろうか。『金閣寺』以来、三島文学を貫いてきた「行為」の優位性が本作で最高点に達する。
昇る日輪、けだかい松の樹陰、かがやく海のもとで自刃することが勲の夢であった。それは現実には適わなかった。しかし、
「正に刀を腹へ突き立てた瞬間、日輪は瞼の裡に赫奕と昇った」
のだ。勲の純粋なる行為が、現実を変化させたのである。三島は、「世界を変えるのは行為だ」と『金閣寺』に於いて溝口に代弁させていた。
ちなみに本作に登場する槙子であるが、第三部『暁の寺』での描写も相俟って、三島作品のヒロイン中いちばん好みだ。勲が槙子を抱きしめた場面で、こんな文がある。
「そのときから酔いがはじまった。酔いは或る一点から、突然、奔馬のように軛を切った。女を抱く腕に、狂おしい力が加わった」
Elgar Cello Concerto Pierre Fournier Berlin Philharmonic Alfred Wallenstein (1966/2017)
エドワード・エルガーが1918年に作曲したもの。悲劇的で胸を裂かれるような主題に惹かれる。紹介するのは私が気に入っているピエール・フルニエの録音。デュ・プレ、カザルスが遺した名盤の影に隠れがちであるが、私は好きだ。高貴な音だと思う。
溝口が「金閣を焼かなければならぬ」という想念に搏たれた、舞鶴湾への出奔について。小説から読取れることを纏める。私の卒業旅行のため。
京都駅発敦賀行の列車「保津峡に沿うて走った」とあるから山陰本線に違いない。途中園部を経由。綾部駅での分岐を北上する。西舞鶴駅で下車。
そこから由良に向かい歩く。道程は3里(=凡そ11.7km)。「道は舞鶴市から湾(舞鶴湾)の底部に沿うて西へ向ひ、宮津線と直角に交はり、やがて瀧尻峠をこえて、由良川へ出る。大川橋を渡つたのちは、由良川の西岸ぞひに北上する。」これは現国道175号線及び178号線のルートそのままである。
由良川の河口に辿り着き、「裏日本の海」を望む。まさにここである、溝口が「行為の啓示」を受けた場所は。
その後宮津線の丹後由良駅の前へ出る。「海水浴御旅館由良館といふ看板のある駅前の小さな宿」に泊まる。これのモデルは実在するのか不明だ。3日後、宿の者に通報されて逗留は終る。警官の付添のもと丹後由良駅から列車に乗り、京に帰る。鹿苑寺の総門の前で、話は終る。
私は特急「まいづる」に乗って楽をしてしまおう。
『アタラ』は作者の目論見から『キリスト教精髄』に先んじて発表されたが、翌年同書第3部第6篇として組入れられた。本作には作者がアメリカ大陸に渡り得た見聞が描写されており、そのエキゾチズムが評判を呼んだ。ヨーロッパ諸国では翻訳が相次いだという。
形式としては、本編について云えば、インディアンの翁シャクタスによる、アメリカに渡ったフランス人の青年ルネに対する独白。全体を通してみれば、それを伝聞した男(シャトーブリアン自身であろう)が、物語を記録したという形を取っている。
物語の内容は、作中でオーブリ神父が云うように「熱狂的な信仰と宗教上の知識の不足とから起こる危険の恐ろしい実例」である。その上でそのような危険、これは即ち「恋愛の激情」と「死の恐怖」とを指しているのであるが、これらに対するキリスト教の勝利を謳っている。
『アタラ』と『ルネ』を通して読むことにより、シャトーブリアンの宗教観が見えてくる。強調されているのは、人間の心の移ろい易さと、それに対するキリスト教の絶対性である。
『キリスト教精髄』の第二部第四編(「情熱の空漠性について(Du vague des passions)」にある挿話。一般的には「世紀病」を表現した典型的な作品と看做されている。欲望が抑圧された結果として生じた孤独、憂愁、厭世に代表されるルネの魂は、シャトーブリアンに続くロマン派の作家たちによって、様々な形で描かれた。
移ろい易い世に生まれ、心の平安を得られない青年ルネにとって、感動に値するものは姉メアリーと過ごした幼い日の記憶だけであった。やがてメアリーが修道院に入るとき、姉弟の間を越えた愛情を抱いていたことに気が付いたルネは宿命に絶望し、すべてを捨ててアメリカへと渡る。
しかしシャトーブリアンが描きたかったのは、世紀病に冒されたこの弱弱しい青年であったのだろうか。いや違う。彼が目指したのは、この青年を断罪することだったのだろう。ルネの独白を聞終えたスーエル神父はこう言う。
わしの目に映るのは、妄想にとりつかれて何もかもおもしろくなくなり、社会に対する責務をのがれて、無用な夢にひたっているひとりの若者の姿だけじゃ。おまえに言っておくが、人生をいまわしいものと考えたからといって、すぐれた人間だとはけっして言えないのだ。(…)おまえは心の憂さばかりが多いいまの風変りな生活に見きりをつけねばなるまい。仕合せというものは、平凡な生き方の中にしか見いだされないのだ。
社会は専らルネの病状にのみ共感して、この物語を持て囃した。そういう時代だったのだろう。だが私は、シャトーブリアンの冷徹な眼に好感を持つ。
フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン(François-René de Chateaubriand),1768-1848
ブルターニュ出身。子爵にして、外交官にして、作家。革命後のフランスに於いて、解放された自我とブルジョワ社会との対立を深刻に表現するフランス・ロマン主義の父。