Mon Cœur Mis à Nu / 赤裸の心

「美」といふものは「藝術」と人間の靈魂の問題である

ワーグナー『トリスタンとイゾルデ(Tristan und Isolde)』1865_愛と死に就いての覚書

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新国立劇場の最上席での観劇。本歌劇の半音階的な重音進行や不協和音の構成は、後期ドイツロマン派を予感させる。内面的響きが特徴である。

前奏曲、「憧れの動機」に始まり、そこからとめどなく流れる美の奔流を受けて、私は忽ち夢うつつ。ゾルデといふ気高き女をまへにして、至高の忘我。

第一幕、屈辱に甘んずるを佳しとせず、一死以て復讐を果さんとする騎士さながらの戦闘精神を顕した強き女イゾルデ。第二幕、愛の偉大さに酔ひしれる歓喜のイゾルデ。第三幕の「愛の死」、トリスタンの死に相対し失意の淵に沈むイゾルデ。

「気高さ」てふ時代遅れの概念の、純然な結晶たる彼女の一挙一動が、私を恍惚とさせたのだつた。

上演には残念乍ら傷があつた。周期的に舞台に現れる、出たがりの猿共(水夫及び兵士役の「その他大勢」)。彼奴輩はワーグナーを知らない。雲助馬丁に劣る下賤の輩の披露する猿踊りは、つゆもワーグナー芸術と相容れる處がない。芸術への堪へ難き冒涜と観じ、目を逸らす事幾度だつたらう。

 

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扨て、トリスタンとイゾルデの死に就いて。二人は救済されたのであらうか?二人の愛は完成したのだらうか?これらを考察するに、イゾルデの「愛の死」の詩は、二人の復活を暗示させるに足るものであるし、更にワーグナーは脚本に斯く記してゐる。

ゾルデは浄化されたやうな姿でブランゲエネにだかれたまま静かにトリスタンの死體のうへに倒れかかる。周囲のひとびとのあひだに大きな感動と忘我

尠くとも、ワーグナーは二人の死を惨めなものとして描ゐてはない。

 

その一方で、彼らの死が十全無瑕でなかつた事も確かである。死に至る過程が問題だ。トリスタンは卑劣漢との一騎打ちに敗れ、その傷が原因で、イゾルデとの最期の逢瀬も満足に果たせずに死ぬ。「神明裁判」といふ考へ方もある時代、決闘に敗れるとはただの不名誉以上のこと。かやうに不完全な死を以てして、愛を完成させる事は果して可能なのだらうか。愛の完成は、ヴィリエ・ド・リラダンの『アクセル』で見られるやうな「完全さ」をシネクアノンとしないのだらうか。

 

愛と死の関係。これは私の研究テーマである。

 

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