Mon Cœur Mis à Nu / 赤裸の心

「美」といふものは「藝術」と人間の靈魂の問題である

三島由紀夫『仮面の告白』1949

祖父危篤の報を受けて暫し実家に身を寄せてゐる。手持無沙汰で子供部屋の本棚を眺める。英語の参考書が大半、ギリシア神話集にドイツ詩集(読んだ覚えはない)、漱石全集、岩波と新潮の文庫判が数十冊。

仮面の告白』が目に留まつた。本棚にある他の三島作品が『金閣寺』『午後の曳航』『憂国』である所をみると、恐らく『仮面の告白』こそ、私と三島由紀夫の出逢ひだつたのだらう。朧気だが15か16の頃に読んだ記憶がある(丁度太宰治を読んでゐた頃)。当時は露骨な官能描写を愉しむ気持が殆どであつた。

 

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さて、どこぞからの貰い物か知らぬ不味い紅茶を片手に、あまり時間を掛けず再読する。

第二章が面白い。後年、三島が『太陽と鉄』の作用で抑へ付けようとした精神内奥の「女」の部分、そこに手術刀を入れてゐるのが第二章である。女の体などより、健康的な青年の血潮にこそ恍惚を感ずる「私」の、年上の同級生近江への恋。

 

彼は雪に濡れた革手袋をいきなり私のほてっている頬に押しあてた。頬になまなましい肉感がもえ上り、烙印のように残った。私が自分が非常に澄んだ目をして彼を見つめていると感じた。この時から、私は近江に恋した。

 

どうだらう、「女」の顔をしてゐる「私」が目に浮かぶ。その一方私が指摘したいのは、「私」の近江の恋し方は、紛れも無く「男」の、ダンディのそれだと云ふ事である。ダンディの恋に付いて私は過去に幾度か検討した。

 

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結論、それは自己中心的な偶像崇拝の事を指す。ダンディが恋ひ慕ふのは、対象のあるがままの姿でなく、創造した思考の人物である。故に対象は亡霊のやうに沈黙し、没我的な思考反映体となる事が求められる。以下に「私」のダンディズムを確認しよう。

私の偶像が今私の前に心の膝を屈して、『雪合戦のために早く来たんだ』なぞと弁解をしてくれたなら、私は喪われた矜りよりももっと重要なものを私の中から喪うはずだった。

彼が書物なんかに興味を持つこと、そこで彼が不手際を見せること、彼が自分の無意識な完全さを厭うようになること、こうしたあらゆる予測が私には辛いからだった。

その道化た顔を見ていることが、彼自身の美しさをそれと知らずに壊してかかっていることが、私にはいたたまれず辛いのだった。

 

もう一点、私が是非とも共感を示しておきたい事がある。

これらの人工的な努力はなにか異常なしびれるような疲れを心に与えた。たえず自分に彼女を恋していると言いきかせているこの不自然さに、心の本当の部分がちゃんと気づいていて、悪意のある疲れで抵抗するのであった。

愛してゐないのに、愛してゐるフリをする。
慾情してゐないのに、慾情してゐるフリをする。
相手と自分自身とを欺くために芝居を搏つ。この倦怠を、私は三島と共有するのである。