Mon Cœur Mis à Nu / 赤裸の心

「美」といふものは「藝術」と人間の靈魂の問題である

モーリアック『偽善の女(La Pharisienne)』1941

神は愛なり 一ヨハ4:16

La Pharisienneはパリサイ女の意。この話で問題となる女は、新約聖書に於るパリサイ人が如く律法に忠実で、罪を冒した人間を咎め、"教化"しようとする。「法律の文字の方を精神よりも守ろう」とする。

その結果多くの人間に反感を抱かしむのであるが、彼女に「罪」はあるのか? 彼女は多くの財産を慈善に捧げ、公教要理に反することは何もしていないのに?

過失は、他人の運命に干渉する権利があると信じたことだ。おそらく私たちの務めの根本は、これはキリスト教徒全体の義務なのだが、福音を告げることなのだ。しかしそれは、私たち個々の考え方に従って自己流に他人を変えることではあり得ないのだ。

女に罪があったとは言わない。だが女には、私たちの信じる神が愛、慈しみ、赦しの神であるということを、忘却した過失があった。神は御子を遣わされる程に我々を愛し給うた。私自身、イエズス降誕の日に大切なことを確認できたと思う。

 

扨て、主のご降誕おめでとうございます。

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酒皶しゅさ、Rosacea)顔に生じる皮膚疾患
クロンスタット帽 ふち無し帽
トルソー(torso) 人間の五体を除いた胴体部分のこと
アルルカン(Arlequin) 道化師、派手な菱形模様のタイツ姿が特徴
vermilion 朱色
羊歯(シダ)
粁(キロメートル)
スグリ 赤い実を付ける落葉低木

佯(いつわる)
薪臭い 異端臭いの意
スータン(仏) キャソックと同義、神父の平服
エリカ(heath) 北方の痩せた荒地に咲く野草、花言葉は『孤独』
膕(ひかがみ) 膝の後ろのくぼんでいる部位

 

オスカー・ベーメ『トランペット協奏曲 へ短調op.18』1899

www.youtube.comあなたはオスカー・ベーメもトランペット協奏曲もご存じないでしょう。私も或る人に出逢わなければ、この両者を知ることはなかったに違いない。
ベーメドレスデンに生れソヴィエト・ロシアに没したドイツ人演奏家、作曲家。『トランペット協奏曲 へ短調』は、ベーメがペテルブルクに居を移して2年後に書かれた、ロシア情緒溢れるロマン派協奏曲。

 

デ・プロフンディス(De Profundis)_羅和対訳

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デ・プロフンディス(De Profundis)とは、「われふかき淵より汝をよべり」を冒頭の語にもつ痛悔の詩篇130のことを指す。但し多くの作曲家が曲を付けている為、聖歌として広く知られている。

既に腐った花で蔽われている墓の前で、ミシェールは義務的に二度続けてデ・プロフンディスを唱えた。

とフランス小説に登場するように、これは死者のための祈り、即ちレクイエムの一種である。ちなみにユイスマンスがその著作『出発(En Route)』の中で蘊蓄を垂れるのは、まさにこの曲のことである。

 

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1 De profundis clamavi ad te, Domine;
あゝヱホバよ われふかき淵より汝をよべり
2 Domine, exaudi vocem meam. Fiant aures tuæ intendentes in vocem deprecationis meæ.
主よねがはくはわが聲をきゝ汝のみゝをわが懇求(ねがひ)のこゑにかたぶけたまへ
3 Si iniquitates observaveris, Domine, Domine, quis sustinebit?
ヤハよ主よなんぢ若もろもろの不義に目をとめたまはゝ゛誰かよく立つことをえんや
4 Quia apud te propitiatio est; et propter legem tuam sustinui te, Domine. Sustinuit anima mea in verbo ejus:
されどなんぢに赦あれば 人におそれかしこまれ給ふべし 我ヱホバを俟望む われはその聖言(みことば)によりて望みをいだく
5 Speravit anima mea in Domino.
わが靈魂(たましひ)はまちのぞむ

6 A custodia matutina usque ad noctem, speret Israël in Domino.
わがたましひは衛士あしたを待つにまさり誠にゑじが旦(あした)をまつにまさりて主をまてり イスラエルよヱホバによりて望をいだけ
7 Quia apud Dominum misericordia, et copiosa apud eum redemptio.
そはヱホバにあはれみあり またゆたかなる救贖(あがなひ)あり
8 Et ipse redimet Israël ex omnibus iniquitatibus ejus.
ヱホバはイスラエルをそのもろもろの邪曲(よこしま)よりあがなひたまはん

 

それにしても歓びの降誕祭を控えて、何故葬式の詩を取り上げているのだろう? 

 

タルコフスキー『サクリファイス(Offret)』1986

本日は待降節第3主日、「喜び(Gaudete)の主日」。神父様は薔薇色のストラをまとう。入祭唱ではVeni, veni, Emmanuelが歌われた。

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静謐な美を湛えたアンドレイ・タルコフスキー監督最期の作品。マタイ受難曲に始まり、終る。Vatican's list of filmsで推薦。良い映画というのは「音」への拘りが違う。

神の意を知り乍ら、遂にそれに従う能わざる人間の愚、絶望を描いていると思い鑑賞したのであるが、どうもそれだけではない。タルコフスキーは本作品で、神に寄り恃む者の希望を示した。主人公である無神論者の老人は、神をみることができたのか?

ラストに於る幼子の台詞。

In the begining was the word. Why is that, Papa?

幼子のこの単純さをこそ、主は愛し給う。

 

映画で言及されるAdoration of the Magi(東方三博士の礼拝)。

 

20221206日記

仕事から帰る。雨でしとどに濡れたスーツにスカーフそして靴の手入れを終え、私はベッドに倒れ込む。ふとスマホを手に取ると、珍しい友人からの通知が一件(そもそも通知自体が珍しいのである)。結婚するという短い報告。どうでもいいと思いながら、月並みの挨拶を返した。

結婚か。私みたいな人間は、とかく結婚というものを神聖視する傾向にあるようだ。カトリック秘跡の一つに数えられるのだから、神聖であることに違いはないのであるが、どうも歪んだ捉え方をする。魂と魂の結び付きだとか、互いを唯一の男女と認め合うだとか、精神的貴族は唯一度しか戀をしないとか、そういう「時代遅れな」御託を並べる。自身が戀をしたことない癖に。

 

栓無いことを書いた。主よ、彼女を祝福し給へ、そして私には安らかな眠りを。

 

御内儀(おないぎ) 京の町屋の妻
金鳳花(きんぽうげ) ウマノアシガタ、buttercup。花弁は黄色く5枚。
マロニエ トチノキ科の落葉高木。シャンゼリゼの街路樹。
手心(てごころ) 手加減のこと
博覧強記(はくらんきょうき) 書物を多く読み、それらをよく記憶していること。
泣いて馬謖を斬る(ばしょく) 規律を保つ為に愛する者を処分すること
懶惰(らんだ) 怠けること

モーリアック『火の河(La fleuve de feu)』1923

フランソワ・モーリアックが創作の初期に遺した短篇小説。「火の河」とは「罪の状態」の比喩表現である。

處女性を渇望する蕩児と、娘の魂の救いのため手を尽す女、この両者の間を彷徨する娘。前二者は、それぞれ悪魔と神の声を象徴している譯。

モーリアックは人間のありのままの姿(すなわち野性的・低劣)を見事に描出す。その描写がまあ不快なのであるが(同宗からモーリアックが攻撃される所以)、モーリアックは「不快なもの」を敢えて書くことで、「神に背を向ける者の悲惨さ」を愬える。

人間は心の渇きを癒やすために惡を求めるが、それで彼等が満たされる事はない。何故なら、彼等が渇望する眞の対象は神であるから。この事実を意識し、神と正面から向きあった時、はじめて人間の心は潤うのだと思う。これは私自身に言い聞かす為書いている。

 

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紅茶が届いた。ひとつはセイロン・ウバのIdulgashinne Bio Estate、もうひとつはディンブラのCairness Tea Estateのもの。あわせて150g。

 

市村崑『こころ』1955

市村崑監督作。夏目漱石の『こゝろ』が原作、森雅之が先生、安井昌二が私、新珠三千代がお嬢さん。やけに芝居臭い演出と思ったが批評家の受けは良かったそう。確かに、先生の遺書の場面になってからは面白かった。だが襖を開けるシーンは絶対に2度必要であった。

小説を読んだのは中学生の砌だったと思う。高島屋の「自由書房」で買った岩波文庫版。高校生の時にも国語科の授業で読んだ。文章が平易・明晰。話も浪漫的で親しみ易い。それに読む度に新しい印象を抱く。この小説が永く愛される所以であろう。

Kの死については随分と考えたが、結局思うのは、お嬢さんの件に関わらず、Kは近く自殺したろうという事だ。だから私は、先生が罪の意識に囚われる必要を認めない。気の毒なことだ。尤も、一番可哀相なのはお嬢さんだが。

精神的に向上心のないものは、馬鹿だ

モーリヤックの人間観ではないが、人間とは宿命的に低劣な、詛われた存在である。だが稀に、この現実に抗い高尚なものを希求する輩が現れる、Kもその一人だ。こうした「夢想」を抱く者の帰結する所とは?

結局、夢想する、それは死ぬことです。(ヴィリエ・ド・リラダン)

Kの遺書にある言葉。

もつと早く死ぬべきだのに何故今まで生きてゐたのだらう

これは私の言葉にもなろう。

暫く旅行をしていた。東京にばかり居ると感性が腐るから。

 

20221127日記

あわれみの神 とく來り給へ我等はみな迎へ奉らん 救いの御子

旅行中で御ミサは欠席したが、本日よりアドベント待降節。悔い改めの時期と雖も、イエズスの受難を想う四旬節と較ぶれば、期待と歓びとに心も騒ぐ。

この時期になると思い出す。昔マリアージュフレールアドベントカレンダーを頂いたことを。カレンダーには、日毎に異なるテイストの茶葉が用意されている。佳き朝の小さな樂しみがそこにはあった。

 

ネルヴァル『オーレリア(Aurélia ou le rêve et la vie)』1855

睡眠薬をもらう為医者に掛かる。薬さえ手に入ればよいのに、何故医者を介する必要があるのか。詮なき事だ。私の尊大な自尊心は、懊悩や孤独を喋喋と口にすることを決して肯じない。こうして文字におこすことはできるのだが。『ペンは弁より強し』。損な性分だと思ってる。

 

さて本題。今日読んだのはジェラール・ド・ネルヴァル(Gérard de Nerval)の『オーレリア』。

 

現実世界への夢の流出とでも呼びたいものがこのときからはじまった。

 

「実世界への夢の氾濫」。ヴィリエ・ド・リラダンにも同様の傾向はある。本作は『ヴァテック』のような幻想性を誇るが、ベックフォードが「意識的」に夢を描いたのに対し、ネルヴァルは彼自身の体験を、唯謙虚に叙述しただけだ。

或る幻視が、現実世界の事象と照合しているとしたら? 魂が生活と夢との間で不確実に漂う状態にあったネルヴァルは、この不確実性に慄きつつも、自身の体験した所を我々に伝えんと筆を取った。夢を描写の対象とし、意識の深層を探らんと試みる点、象徴主義のみならず、プルーストシュルレアリスムに通ずる所がある。

なおネルヴァルは、第二部の発表を待たずして首を縊って死んだ。

 

 

ムソルグスキー『ボリス・ゴドゥノフ(Борис Годунов)』1874

彌早、今宵のオペラも酷かった。新国立オペラは屡々私を失望させる。現代に於る鹿鳴館の猿共め。ムソルグスキーの音楽は良かった。オーケストラは及第。だが歌手、演出。これらが低劣極まる。歌はピーメン役を除いてあまりに貧弱。演出は軽佻浮薄で貧乏臭い。先鋭的なことを批難したいのではなく、やるにも中途半端だから観るに堪えないのだ。マーケティングにも失敗していると思う。歴史劇なのだから、堂々たるオペラを観たかった。

さて私の主観的な感想はもういい。少し音楽の話を。ムソルグスキーの『ボリス・ゴドゥノフ』。原作はプーシキンの戯曲である。「ロシア情緒」溢れるロマン派の秀作と云って可い。

 

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「ロシア情緒」という言葉を使った。それは何か?

ロシア情緒とは、まず主題に由来するものである。グリンカチャイコフスキーボロディン。他にもいるが、彼らほど音楽の主題を「自ら」に求めた民族はいない。『皇帝に捧げた命』、『1812年序曲』、『イーゴリ公』などをみよ。イタリア音楽やフランス音楽は、案外彼方此方から題材を採っているものだ。

 

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同時にロシア情緒とは、音楽的特徴でもある。それはつまり、正教会聖歌とロシア民謡の旋律を有するということ。より具体的には、一つの音程が直線的に続く4声による荘厳なハーモニー、長六度の感傷的メロディーを作品に取込み、それを聴く者にルーシの血を喚び起すような熱情を孕んでいるということだ。

 

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