Mon Cœur Mis à Nu / 赤裸の心

「美」といふものは「藝術」と人間の靈魂の問題である

ドビュッシー「相思の人の死(La mort des amants)」『ボオドレエルの五つの詩(5 Poèmes de Charles Baudelaire)』1889


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ボオドレエル、『惡の華』の第121篇「相思の人の死」という4.4.3.4の十四行詩<ソネット>に、ドビュッシーが曲を付けた。詩は、相思の2人の愛と死、そして復活という主題。詩譯は齋藤磯雄氏のものを参照した。

 

Nous aurons des lits pleins d'odeurs légères,
Des divans profonds comme des tombeaux,

Et d'étranges fleurs sur des étagères,
Écloses pour nous sous des cieux plus beaux.
仄かなる香氣ただよふ臥床、はた
墓のごと深き寝椅子をしつらへて、
われらがために此處よりも美しき風土に
咲きいでし、奇しき花を棚に飾らむ。


Usant à l'envi leurs chaleurs dernières,
Nos deux cœurs seront deux vastes flambeaux,
Qui réfléchiront leurs doubles lumières
Dans nos deux esprits, ces miroirs jumeaux.
最期の熱を互に競ひつつ
心臓は燃ゆる二つの炬火となり、
そのふたすぢの炎をば、二人の靈に
映すべし、これや對なる眞澄鏡。


Un soir fait de rose et de bleu mystique,
Nous échangerons un éclair unique,
Comme un long sanglot, tout chargé d'adieux;
薔薇色と神秘の青にけむる宵、
われら交さむ、ひとすぢに閃く光、
別れを惜しみ堰きあへぬ嗚咽のごとく。


Et plus tard un Ange, entrouvrant les portes,
Viendra ranimer, fidèle et joyeux,
Les miroirs ternis et les flammes mortes.
暫し後、天使來りて、戸をひらき、
眞心こめて樂しげに、蘇生らしめむ
陰れる鏡を、更にまた消えし炎を。

 

実はヴィリエ・ド・リラダンもこの詩に曲を付けている。今日本当に書きたかったのは彼のこと。彼は幼少の砌からピアノを佳くし、アコンパニメントはお手の物であった。サロンでは即興も披露したと。しかし作曲を楽譜に書くということをしなかった為、彼のメロディは永劫この世から失われてしまった。そうした中で、啻唯一残っているのが「相思の人の死」である。ヴィリエからボオドレエルに宛てた手紙の中にハーモニー、伴奏の和音、すべてが記録されていた。その楽譜は以下である。

メル・ギブソン『パッション(The passion of the Christ)』2004

メル・ギブソン監督作。キリストの受難を描く。全編アラム語ラテン語による、吹替版は監督の意向で作成されていない。サタンの登場以外は、共観福音書に極めて忠実であるように思われる。

世の人の救いのため、自らの尊き命を捧げ給うイエズス。笞打たれ血潮滴る、いたましき御顔。増上慢共に御子を弑される聖母の苦しみ。涙、否、嗚咽なくしては観ること能はない。だがキリストの受難から目を背けてはならない。受難を知らねば、御子の復活、勝利を知ることもできないからだ。

イエズスと同じい磔刑に処されし悪人、右盗ことディスマスに思いを致した。彼の信仰告白が、どれほどイエズスを慰め、勇気つけたことであろう。イエズス最後の時に、聖なる働きをおこなった善なる盗賊よ。我汝を讃え奉らん。

 


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ベルトラン『夜のガスパール(Gaspard de la nuit)』1842

 

この稿本には、諧調と色彩のおそらくは新しい技法が數かずおさめてあるのです。

 

アロイジウス・ベルトラン(Aloysius Bertrand)による詩集。「散文詩」とはすなわち、無韻無脚でありながら詩的律動を感じさせる文章のことを言うが、ベルトランは『夜のガスパール』を以て、この「散文詩」というジャンルを確立した。苦悩の創造者に讃美。

『夜のガスパール』はサント=ブーヴの心を動かし、ボードレールを感嘆させた。もし彼が『夜のガスパール』に啓発を受けなければ、『パリの憂鬱』は書かれなかったろう。芸術とは連綿たる歴史であると思う。

而して私の所感。散文詩は難しい。私はリズムのない文章を上手く吞み込めない。大方の日本人は私と同様なのではなかろうか。我々の慣れ親しむ母国語が元来音楽性豊かな為かと思う。要再読。

 

藝術は常に正反對の二面を持つてゐる。例へば片面は著しくパウルレンブラントの風韻を伝へ、裏はジャーク・カローの趣をつたへるメダルのやうなものである。レンブラントは白髯の哲人、庵にこもつて瞑想と祈禱に思ひをひそめ、眼を閉ぢて三昧に入り、美や學や智慧や愛の諸靈と語らひ、自然界の幻妙な象徴に徹せんものと精根を涸らす。これにひきかへカローは法螺吹きで助平な野武士どの、街の廣場を肩であるき酒場にゐては亂痴氣さわぎ、ジプシー娘をかはいがり、誓の代は剱と銃、髯をみがくほかに屈托のない男。

 


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乃し(いまし) ちょうど今、今になって
hermit 隠遁者
obstinacy 頑固
backward pupli 劣等生
make off こっそり逃げる
河骨(こうほね) 水辺に咲く黄色い花
左見右見(とみこうみ)
andiamo(伊) let's go
tuberculosis 結核
cliche 使い古された文句
dimple えくぼ
クレピネット(Crépinette) 仏料理、平型のソーセージ

Is the Pope catholic? 野暮なことを聞くな
輯める(あつめる)
transgression 違反
iniquity 不法行為
アマンド(仏) アーモンド

 

 

ドン・ボスコ社『愛の使徒 聖ウィンセンシオ・ア・パウロ』1935

神は愛なり(一ヨハ4:16)

 

ドン・ボスコ社発行の『愛の使徒聖ウィンセンシオ・ア・パウロ』なる書物を読んだ。聖人伝とはなかなか面白いものである。

 

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前にも書いたが、聖ヴィンセンシオ・ア・パウロは「行動」の人である。教会や修道院に閉じ籠る人ではない。泥濘に堕落した人を救わんと欲するならば、自らも亦泥濘に入り込むだけの覚悟がなければならない。奴隷として重労働を経験し、ガレー船で徒刑人の身代りをつとめた聖ヴィンセンシオには、それが明らかであった。聖ヴィンセンシオの下には、陸続として救いを求める人々が集ったという。

聖ヴィンセンシオは老いても猶働き続けた。命旦夕に迫る頃には、彼の身体は過労のため、見る影もなく曲ってしまうほど。聖ヴィンセンシオはジュール・マザラン卿に斯う言ったことがある。

大臣閣下、私達は天国で永遠に休息する事が出来ます。しかも悪魔は決して休息する事を致しません。それで、せめて現世に居る間は、私達に休息が許されてはなりますまい。

 

有言実行の男。私の憧れ。私は聖ヴィンセンシオを崇敬する。
主よ、聖ヴィンセンシオ・ア・パウロの執成しを以て祈ります。私に、彼の不屈の精神と行動力を。

 

 

ドン・ボスコ社『ドメニコ・サウィオ傳』1929

エス跪づきて祈り言ひたまふ、『父よ、御旨ならば、此の酒杯を我より取り去りたまへ、されど我が意にあらずして御心の成らんことを願ふ』(ルカ傳22:41-42)

 

ドン・ボスコの『ドメニコ・サウィオ傳』を読んだ。
ドミニコ・サヴィオカトリックの聖人。1842年サルデーニャ王国ピエモンテのリーヴァに生れ、モンドニオで育ち、やがてその才を認められ、トリノのオラトリオで学んだ。

 

僕は、罪を犯すくらゐなら死にます

 

齢7年にして初聖体を受けた日、ドミニコが書いたとされる手記である。ドミニコは幼少の砌から熱心な信仰心を見せ、快活な少年らしさを持ちながら、神の御心に適う人物であらんとする不断の決意に生きていた。

印象的なエピソード。ドミニコは、街角で病人の為に運ばれる聖体に出逢う時、たとえ雨で道が泥だらけになっていようとも、必ず跪づいて礼拝をした。着物を気にして跪づくことをしない者がいると、彼はその者のため、自らのハンカチを敷いたという。

しかしドミニコの知恵の鋭敏と、精神の不断の緊張とは、彼の生命を蝕んだ。彼は齢15年にして帰天するが、今際の時、彼の裡にあるのは唯喜びのみであった。

 

主よ、聖ドミニコ・サヴィオの執り成しを以て祈ります。私に彼の揺るぎない信仰を。

 

 

ヴィスコンティ『山猫(Il Gattopardo)』1963

ルキノ・ヴィスコンティ監督作。カンヌでパルム・ドール。俳優はバート・ランカスターアラン・ドロン、クラウディナ・カルディナーレら、ヴィスコンティ作品にお馴染みの顔ぶれ。

教養と秩序、正統美。これぞ芸術。バチカンの推薦を受けるのも宜なる哉。
これ程にピトレスクな映画を作るのはヴィスコンティだけだろう。なおアメリカ人を苛立たせる相変わらずの冗漫さは健在である。

自由主義の勃興、ジェントリ階級の台頭(19世紀の黒死病である)。これらによって、シチリアの名門貴族の血統・精神が、じわりじわりと冒されていく様を、もの哀しく描く。

 

我々は山猫であり獅子であった。今やジャッカルやハイエナに、その地位を譲ろうとしている。しかしすべての存在は、自らこそが地の塩、世の光であると信じ続けるのだ。

 

20221105日記_東京カテドラルにて

人々を強ひて連れきたれ (ルカ傳14:23)

 

晴れ、よい心地。
朝、京都から紅茶が届く。ルフナ地方のルンビニ茶園のもので等級はFBOPF、Flowery Broken Orange Pekoe Fannnings。
午餐はフランス料理屋で、Inada fumé、Clepinettes de porcを注文。
その後で東京カテドラルへ。荘厳ミサ(ミサ・ソレムニス)が大司教猊下の司式で執り行われたため、それに与った。ミサ曲はCUM JUBILO.
聖なる神を、神が定めた正しく美くしい方法で讃美する、それが荘厳ミサである。畢竟人間とは美に惹かれる生き物であるから、人々を信仰に導く為、凡俗化の潮流に反抗して、美くしい荘厳ミサを執り行わんとする兄弟の志に、私は心よりの敬意を表したいと思う。宗教の威厳を否定し、ミサを村の寄合いに下降せしめては、宗教は自壊するだけである。

 

20221030日記_Meine Ruh ist hin

落ち着きは消え去りて 我が胸のいとおもし

              『ファウスト

御ミサに調和が見出せず、悲しくて、思わず途中でふけてしまった。十字架の影が射した我が心、カトリック以外の何者にも為りはすまいてふ気持に変わりはないが、イエス様は我が信仰薄きをお咎めになるだろう。

教会で落ち着きを得られないとなると、行く場所は植物園しかない。亭々たる大樹の蔭を逍遥。篠懸樹の下に休む。私はこの一本の木を護り得るならば、百人の邪教徒を火中に投込むことに、些かの躊躇いもない。

 

中島敦『斗南先生』1942

中島敦による短篇小説、私信と云っても可い。奇言奇行に富む漢学者であった伯父に対する作者のアンビバレントな想いを分析する、心理小説の趣がある。

決して彼が不遇なのでも何でもない。その自己の才能に対する無反省な過信はほとんど滑稽に近い。時に、それは失敗者の負惜しみからの擬態とも取れた。

作者は自己の気質が、伯父のそれと似かよっていることを認めつつ、上のような厳しい分析を残した。つまり、これは自己糾問である。ここに至って読者は、『山月記』李徴の苦悩もまた、作者自身のそれであることに気付くのである。

 


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