Mon Cœur Mis à Nu

「美」といふものは「藝術」と人間の靈魂の問題である

世界首都ゲルマニアについて

ヒットラーが計画した首府の改造。都市設計はベルリン建設総監、後の軍需大臣であるアルベルト・シュペーア(Albert Speer)が担当。

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 ベルリン中央駅から国会議事堂(Große Halle)の南北を貫く5kmのメインストリートに沿って政府機関ビル、大企業本社、各国大使館等を設置。それぞれ新古典主義、石造りで建設される予定であった。

ナチの建造物に新古典主義が採用されたのは、シュペーアの前任である党主任建築家パウル・トロースト(Paul Troost)の影響が大きい。新古典主義の大家であるトローストは1930年にヒットラーと出会う。「ヒットラーとトローストは尊敬すべき師弟関係にあった」とシュペーアが述べている様に、ヒットラーはトローストに建築を学びつつ首都改造の構想を練った。トロースト設計の建造物としてはミュンヘンのHaus der Kunstがある。

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1934年にトローストが死去し彼を引き継いだシュペーアは、「廃墟価値の理論(Ruinenwerttheorie)」を考案。「偉大な文明を誇ったアテネやローマの建築物が、廃墟となった現在でもその美しさを讃えられている様に、第三帝国の建築物もそうあらねばならない」というのが趣旨である。ヒットラーはこの理論に甚く感銘を受けたようだ。ヒットラーが作ろうとしたのは、世界を支配する帝国に相応しい「第三のローマ」に他ならなかった。

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 総統官邸,ソ連軍により爆破された

ヒットラーが戦争に敗れたため、世界首都ゲルマニアは実現しなかった。終戦までに建てられた少数のナチ建築も、市街戦でその多くが瓦礫と化した。

 

「美」と「個性」とが、無用の長物として駆逐される現代。民主主義社会に形式美は期待できない。民主主義社会の人民は秩序に対して激しい憎悪を持つからだ。それは建築についても言えるのであって、思えば古来より統一された景観を誇る美しい都市は「強い権力」のもとで建設されてきた。パリにしても、放射状の大通りを特徴とする、現在の整理された姿となったのは第二帝政の頃だ。

 

西側諸国の人民はパリを憧憬し乍ら、パリを作ろうとはしない。近現代の建造物は、移ろい易い流行に阿ってそのデザインを決定する。結果、街には有象無象の建造物が立ち並び、近い将来、世界の至る所が東南アジア化するであろう。