Mon Cœur Mis à Nu / 赤裸の心

「美」といふものは「藝術」と人間の靈魂の問題である

九鬼周造『「いき」の構造』1930_(1)意識現象

自負が悲惨と結びついてゐなければならぬとは非常な不正である(パスカル『パンセ』214)

 

晴。多忙を窮めてをり、烏兎怱怱、酔生夢死驀地。宮仕への悲しさよ。

先週の金曜、関口教会で聴いたメシアンの"L'Ascension"は瞑想的で良かつた。しかし、かの悪趣味な近代的建造物の空間的広がりに対するオルガンの性能不足と、何より音楽にもカトリシスムにも相応しくない魂の乞食共、学無く識無く感覚無き精神的片端共が傍らにゐては、メシアンも益無し。どうして"SURSUM CORDA"の境地に至れよう。

 

扨て、九鬼周造の『「いき」の構造』に就いて。本書は江戸文化の「いき」を分析した書だが、東京よりも寧ろ京都でよく読まれてゐるのではないか。京都時代の識合ひに私の蔵書を見せた折、一瞥して(垂涎の仏文コレクションには一顧眄も与へず)、『九鬼周造全集』の存在を指摘した事はよく憶えてゐる。

その理由としては、まず九鬼博士が京都帝国大学で教へてゐたからで、鷲田清一氏が『京都の平熱』と云ふ新書の中で九鬼を紹介してゐる影響もあらうが、より本質的には、九鬼の思想が野暮を嫌ふ京都人の心に愬へる為だらう。

 

序に九鬼は、「いき」を他言語で表現する困難を論じてゐる。抑も言語とは一民族の共通体験の自己開示である。「いき」といふ日本語は殊更民族的色彩の著しい語であつて、実際欧州語にはchic、elegant、coquet、raffineといつた類似語はあるけれども、全然同価値の語は見出し得ない。故に九鬼は、「いき」の具体的表現に先んじて、民族的体験に基づく「いき」の意味の闡明に取組んだ。

 

1. 「いき」の内包的構造(定義)

・「いき」の包有する徴表は、「媚態」、「意気地」、「諦め」である。

・「媚態」とは、自己と異性との間の二元的可能性を前提とする色つぽさ。「可能性」を前提としてゐるから、異性が完全なる合同を遂げて緊張性を失ふと、「媚態」は消滅する。

・「意気地」とは、犯す可らざる気品気格、理想主義へのストイシスム。「意気地」は「媚態」を霊化する。武士道的理想主義。

・「諦め」とは、つれない浮世の洗練を経て垢抜けした無関心。「諦め」は「媚態」を恋の束縛から解放し、「媚態のための媚態」を生む。仏教的非現実性。

・要するに「いき」とは、我が国の文化を特色付けてゐる道徳的理想主義と宗教的非現実性との形相因によつて、質料因たる媚態が自己の存在実現を完成したもの。

・「いき」とは「垢抜けして、張のある、色つぽさ」と定義される。

 

2. 「いき」の外延的構造(類似意味との区別)

・「いき」に関係を有する主要な意味は、「上品」、「派手」、「渋味」等である。

・「上品」とは、価値判断を含む言葉である。「いき」との関係は、一方に趣味の卓越といふ意味で有価値的であるといふ共通点を有し、他方に「媚態」の有無といふ差異点を有する。

・「派手」とは、対他的積極性を含む言葉で、価値判断を含まない。「いき」との関係は、他に対して積極的に「媚態」を示し得るといふ共通点を有するが、派手の特色たるきらびやかな衒ひは「いき」のもつ「諦め」と相容れない。

・「渋味」は対他的消極性を含む言葉で、価値判断を含まない。「渋味」は異性的特殊性を公共圏として「甘味」の否定によつて生じたものであり、「渋味」は豊富な過去を持つてゐる。「いき」は肯定(甘味)より否定(渋味)への進路の中間に位してゐる。

 

 

而して「いき」な人とは、どのやうな人を云ふのだらう。信条を有し浮薄な所のない人間性。憂愁帯びる諦念を有してゐながら、東邦流の遁世者ではない。私の頭に「ダンディー」が浮かんだ。中庸、不感無覚、ストイシスム、趣味の洗練、共通点は多い。

 

ダンディーは常住不断に崇高ならんことを欣求しなければならぬ。ダンディーは鏡の前で生き、かつ、眠らなければならぬ(ボオドレエル『赤裸の心』3)

 

だが矢張り完全同一ではない。「いき」な人はダンディー程には人工的でない。「いき」な人には過去がある。乾ける涙の痕がある。