Mon Cœur Mis à Nu / 赤裸の心

「美」といふものは「藝術」と人間の靈魂の問題である

ワーグナー『トリスタンとイゾルデ(Tristan und Isolde)』高木卓訳

昧爽の光が窓帷の隙間から漏れている。朝まで一文にも成らぬ事に精を出して愚かな事だと思うが、これが私の生である。

 

先刻まで『トリスタンとイゾルデ』のリブレットを読んでいた。岩波上梓の高木卓譯。この三幕からなる楽劇の台本は、作曲者自らが「トリストラムとイゾーデ」伝説のヴァリアントをもとに書き下ろしたもの。音楽は1865年にミュンヘンハンス・フォン・ビューローの指揮で初演された。

 

中世騎士物語をもとにしているが相違はある。その最たる点は、コーンウォールへの航路上に於ける、トリスタンとイゾルデの媚薬の飲み方だろう。中世詩の方で二人は、侍女の粗忽により偶然に媚薬を受けた。対するワーグナー脚本に於ける二人は、過去を贖うため意識的に、「死」を受ける積りで薬を飲んでいる(但しその薬は侍女の企みで媚薬にすり替えられていた)。媚薬により顕現した二人の愛は「昼」に背くものであるから、話は必然に「死」へと進む。ここに「死を以て愛を完成させる」というワーグナークレドが現れて、古りし中世詩はワーグナー芸術へと昇華される訳である。

 

許されぬ愛を描く本作の創作動機を促したのは、ワーグナー自身のマティルゲ・ヴェーゼンドンク夫人との恋愛である事は夙に有名である。15歳年下、しかも自らの経済援助者の妻との恋愛、この事実だけを捉えれば不義そのものであるのだが、ワーグナーはこの恋愛を理想化していた。ワーグナーにとってマティルゲは「永遠の女性」であって、二人の愛が肉の羈絆を断つものであった事は疑いなかろう。こうした恋愛の反映体として『トリスタンとイゾルデ』は生まれた。その歌詞はワーグナーからマティルゲに捧げる、真摯な愛の告白であった。

 

かうしてあなたは身を死にささげた。私にいのちをくれるために。かうして私はあなたのいのちをえた。あなたとともに悩み、あなたとともに死ぬために。

 

いつか『トリスタンとイゾルデ』と『アクセル』の比較研究をしたい。

 

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『Out of the deep(De Profundis)』詩篇 第130篇

されど人の子の来る時地上に信仰を見んや

                ルカ傳18:8

この頃希望を見出せずに居る。

 

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アングリカンで歌われるデ・プロフンディス。The Choir of King's College, Cambridgeの録音。Reverentな響き。

 

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1. Out of the deep have I called unto thee,
2. O Lord: Lord, hear my voice.
O let your ears consider well: the voice of my complaint.
3. If thou, Lord, wilt be extreme to mark what is done amiss o Lord, who may abide it?
4. For there is mercy with thee: therefore shalt thou be feared.
5. I will cry aloud, my soul doth wait for him: in his word is my trust.
6. My soul fleeth unto the Lord: before the morning watch I say, before the morning watch.
7.
O Israel, trust in the Lord, for with the Lord there is mercy and with him is plenteous redemption.
8. Right he shall redeem Israel: from all his sins.

 

私は第6節が誠に好き。「わがたましひは衛士があしたを待つにまさり誠にゑじが旦をまつにまさりて主をまてり」。

 

 

 

リヒャルト・シュトラウス『サロメ(Salome)』1905

新しき背広を著て、新国立劇場まで出かけ鑑賞。一幕のオペラたる本作は、オスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』を台本に、リヒャルト・シュトラウスが曲をつけたもの。

 

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ヨハネの首を摑み始まるサロメの長い告白。

本日のオペラの演出の問題なのか、そもそも音楽の問題なのか判らぬが、サロメヨハネを斬首に処した事を一部後悔してゐる様子であつた。戯曲を読んで私がイメージしてゐたのは、淡々と、冷たく微笑みながら言い放つ、邪悪さの権化たるサロメであつた。この点ギャップがあり、愉しんだ。

 

しかしまあ、相変はらず日本人キャストの声はくぐもつて、管弦楽に押し負けて、低劣といふ他なかつたが(ほんたうに消えれば可い)、外国人キャストは4人とも良かつた。個人的にはヘロデの熱演が気に入つた。

 

明日は聖霊降臨祭か、Veni Sancte Spiritus.

 

プーランク『カルメル会修道女の対話(Dialogues des carmélites)』1957  

本ブログのテーマは副題として書いてある通り「美というものは、芸術と人間の霊魂の問題である」、即ち「芸術と信仰」である。だがこの頃は宗教色が強すぎると思っている。復活祭で一区切りをつけたい。

 

さて本日、四旬節第5主日の福音朗読箇所は「ラザロの復活」であった。キリストによって死は永遠の命へと向かう、その希望が告げられる。

この章でのイエスは「宮きよめ」の場面同様、感情を顕わにされる。心を傷め、悲しみ、涙をながし給ふ。私はイエス様のこうした側面が好きだ。イエス様は無機質な偶像ではない。愉しい時は笑うし(e.g.カナの婚礼)、悲しい時は涙を流すし、苦しい時には懊悩される。まさしく「人の子」なのだ。

だが、その「人の子」は、他の人間には決してできぬ事を成し給ふた。あの受難を忍ばれ、彼を十字架に磔り付けた当事者たる人々の為に祈り、完全なる愛によって、人類全体を永遠の死から甦らせた。だからこそ我々は彼に寄り添いたいと思うのだ。

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本題。主日ミサに与った後、真砂の区立図書館まで出掛けて、このCDを借りた。『カルメル会修道女の対話』は、独逸のカトリック作家、ゲルトルート・フォン・ル・フォールの歴史小説『断頭台下の最後の女(Die Letzte am Schafott)』のオペラ化作品。内容は「ラザロの復活」のテーマと大いに結びつく。

 

生来の自らの臆病、頼り無さに絶望した侯爵令嬢ブランシュは、コンピエーニュのカルメル会修道院に入会する。或る日修道女のコンスタンスは、同じ日に天に召される夢を見た、とブランシュに告白する。

時は折しも大革命の只中。修道女達は立法議会より、聖務禁止、還俗を命ぜらる。荒涼たる世の救済の為、生贄と為る事を望んだ修道女達は、副修道院長マザー・マリーの主導で「殉教の誓願」を行う決定をする。だがいざ誓願という時に、ブランシュは逃げ出した。

死刑判決を受けた修道女達は、サルヴェ・レジナを歌いながら一人ずつ断頭台へと登る。歌声は刃に消え、徐々に小さくなる。そして最後の修道女コンスタンスの首が落とされんとする時、彼女は群衆の中にブランシュの姿を見出した。コンスタンスは倖せに顔を輝かせながら死んでゆく。コンスタンスから歌を引継いだブランシュは、神の栄光を唱えながら、みなと運命を偕にした。

 

本オペラは「慎み深い宗教的音楽」として評価が高い。

私としては透徹で鋭く、無機質ながら心を動揺させる、冴えた音楽だと思った。印象的だったのは第三幕第四場のサルヴェ・レジナ。刃の落ちる毎に歌声が小さくなってゆく演出は精神に来る。「キリストによって死は永遠の命へと向かう」。だが録音だと修道女達の希望の表情が見えないから、怕しさが窮立ってしまう。

 

映画『神々と男たち』との類似。修道士、修道女と云う人達は、何故こうも強いのだろう。私は殉死の事を思うと気を喪ひそうになる。情けなく思う。ブランシュも私と同じ気持だったろうか。そうした自身を見限って、カルメル会へと駆込んだのだろうか。

 

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ワーグナー「ヴェーヌス讃歌(Dir, Göttin der Liebe, soll mein Lied ertönen!)」『タンホイザー』第二幕より 対訳


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タンホイザーは童貞達の面前で淫蕩な歌をうたい城を追い出された。

 

Dir, Göttin der Liebe, soll mein Lied ertönen!
愛なる女神!汝に捧げん我が歌を
Gesungen laut sei jetzt dein Preis von mir!
今高らかに汝を称へさせ給へ
Dein süsser Reiz ist Quelle alles Schönen,
悉皆の美は汝より生れ
und jedes holde Wunder stammt von dir.
悉皆の奇蹟は汝の名に行はる
Wer dich mit Glut in seinen Arm geschlossen,
汝の抱擁を知る者こそ
was Liebe ist, kennt er, nun er allein:
眞の愛を得心すべし
Armsel'ge, die ihr Liebe nie genossen,
之を知らぬ貧しき者よ
zieht hin, zieht in den Berg der Venus ein!
とく去ねよかし女神のみやまへ

 

来月『ホフマン物語』が上演される。好きな演目だ。
だがオランピア、アントニア、ジュリエッタ全員日本人ときた。これで誰が見に行くのか。日本人はオペラに向いていない。日本人には日本人に向いた芸術があると云う事が言いたいのであって、この意見を西洋被れと非難する輩は音楽を愛さぬ者だ。

 

ワーグナー『タンホイザー(Tannhäuser)』1845

誉むべきかな、稀世の大芸術家リヒャルト・ワーグナー

私はオペラのはじまりと偕に倏忽として地上から攫われた。斯の至高の音楽が続く限り、舞台上の幻想こそが実在で、それ以外の全ては非存在である。私は斯く確信させられたのだ。それは引力の束縛から解放されたような、異常な逸楽であった。

やはりワーグナー楽は劇場で真摯に聴くべきだ。自宅で料理をしながら口ずさむ『ドン・ジョヴァンニ』のような音楽とは性格が異なる。『タンホイザー』は一キリスト教徒の「信仰宣言」である。その3時間に及ぶ音楽は、DEUS CARITAS EST、この至純にして至高な3語に集約される。私とワーグナーの信じる神は同一である。故に私がどれ程の喜びを以て『タンホイザー』を聴いたか、ご理解頂けるだろう。

 

私の藝術は、私の祈りです。

 

これはワーグナー自身の言葉である。

 

良い演奏だったと思う。平生と異なり歌手が健闘していた。特に、名は知らぬが、妬み深いウェヌスと聖女エリザベトの演者。安定した力強い高音だった。

基本的に雙目を閉じ音楽に注意を凝らしていたのであるが、ふと目を開けると下品なバレエが展開されており興醒め。新国立劇場の素人バレエへの執着は何だ? 1861年の浮薄なパリジャンでも喜ばないような低劣さであった。あとカーテンコールが長い。新国立劇場は芸術冒瀆を即時止めよ。

 

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グレゴリオ聖歌_キリアーレ(Kyriale)について

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キリアーレ(Kyriale)とはグレゴリオ聖歌のミサ通常式文集のこと。18組のミサ曲が所収されており、例えば有名な天使ミサ(De Angelis)は8番、クム・ユビロ(Cum jubilo)は9番、オルビス・ファクトール(Orbis factor)は11番である。各々どの祝日に歌われるのか決められており、対象日を下に記したが、細かい處までは判らなかった。ローマ・カトリック典礼Liber Usualisを読むか、ソレムの修道士にでも訊ねてみることだ。

 

1番: Lux et origo<ルックス・エト・オリゴ>...復活節
2番: Kyrie fons bonitatis<キリエ・フォンス・ボニタティス>...一級祝日
3番: Kyrie Deus sempiterne<キリエ・デウス・センピテルン>...一級祝日
4番: Cunctipotens Genitor Deus<クンクティポテンス・ジェニトル・デウス>...二級祝日
5番: Kyrie magnae Deus potentiae<キリエ・マグナエ・デウス・ポテンティエ>...二級祝日
6番: Kyrie Rex Genitor<キリエ・レクス・ジェニトル>...二級祝日
7番: Kyrie Rex splendens<キリエ・レクス・スプレンデンス>...二級祝日
8番: De Angelis<ディ・アンジェリス(天使の)>...二級祝日
9番: Cum jubilo<クム・ユビロ(悦びと偕に)>...聖母の祝日
10番: Alme Pater<アルメ・パーテル>...聖母の祝日
11番: Orbis factor<オルビス・ファクトール(天地の創造主)>...年間主日
12番: Pater cuncta<パーテル・クンクタ(万物の父)>...三級祝日
13番: Stelliferi Conditor orbis<ステルリフェリ・コンディトル・オルビス>...三級祝日
14番: Jesu Redemptor<イエズス・レデンプトル>...三級祝日
15番: Dominator Deus<ドミナトル・デウス>...降誕祭
16番: タイトルなし...週日
17番: タイトルなし...待降節四旬節主日
18番: Deus Genitor alme<デウス・ジェニトル・アルメ>...待降節四旬節の週日

 

暴戻(ぼうれい) 道理に反する行為をすること
釁る、衅る(ちぬる) 刀剣などを血で汚す
囲繞(いじょう、いにょう)周りをとり囲むこと
蕩尽(とうじん)
孜々(しし) 熱心に務める様
梟雄(きょうゆう) 残忍で勇猛であること
貪婪(たんらん) きわめて慾の深いこと
戟叉(げきさ) 人を捕える為の道具
滔々懸河(とうとうけんが) 弁舌を振うこと

闡らか(あきらか) 明らかにする
indignant 憤慨した
anoint 聖別する
描破(びょうは) あますところなく描きつくすこと
夢寐(むび) 眠って夢をみている間
対晤(たいご) 面会すること
瘋癲(ふうてん) 精神疾患
犀利(さいり) 才知などが鋭いこと
剔抉(てっけつ) えぐり出すこと、悪事や矛盾を暴き出すこと
一気呵成(いっきかせい) 一息に文章を完成すること
媾わる(まじわる)
媾曳(あいびき) 男女が忍び会うこと
済度(さいど) 困難や疲労から救うこと、「済度し難い」と使う
寥寥(りょうりょう) 空虚なさま、数が非常に尠いさま
塵労(じんろう) 俗世の煩わしい苦労
翩々(へんぺん) 軽々しくて落ち着きのないさま
眷戀(けんれん) 恋焦がれるさま
幽婉(ゆうえん) 奥深く味わい尽きない、幽玄である
倉皇(そうこう) あわてふためくさま
錚々たる(そうそうたる)
墨客(ぼっかく) 絵描き
啾啾(しゅうしゅう)ものがなしく泣く、響くさま



 

『Hark! The Herald Angels Sing(あめにはさかえ)』カトリック聖歌集652番

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本日の主の降誕ミサの入祭唱。私にとってクリスマスキャロルと云えば、この『あめにはさかえ』か『よのひとわするな(God Rest You Merry, Gentlemen)』になる。対譯は原詩に忠実なものにした。カトリック聖歌集のものと異なるため注意されたい。

 

1 Hark! the herald angels sing,
聞け、御使たちの歌

"Glory to the newborn King:
「生まれ給ひし主に栄光、

peace on earth, and mercy mild,
地には平和と憐憫(あはれみ)、

God and sinners reconciled!"
神と罪人は和解せり」

Joyful, all ye nations, rise,
悦びに、諸人よ立ち、

join the triumph of the skies;
天の勝利にいさ加はらむ

with th'angelic hosts proclaim,
主の御使斯く告げ給ふ

"Christ is born in Bethlehem!"
「救主、ベツレヘムにて生まれ給へり」
Hark! the herald angels sing,
聞け、御使たちの歌

"Glory to the newborn King"
「生まれ給ひし主に栄光」

 

動画はロンドンのセント・ポール大聖堂のものだと記憶している。何とも美しく、視聴によって、しみじみと主の降誕の悦びに浸ることができる。
日本で美しい聖歌を聴くことは、もはや難しい。尤も聖歌は祭儀を芸術的なものにするための飾りではないのだから、美しくある必要はない。
だが私は寂しいのだ。髙田三郎氏の生涯を懸けたミサ曲をおざなりにし、あのように低劣な旋律を用いるのは。
京都の河原町教会でウィリアム・バードによる四声のミサ曲を聴いた時の感動を兄弟と頒つことは叶わぬのか。

 

 

オスカー・ベーメ『トランペット協奏曲 へ短調op.18』1899

www.youtube.comあなたはオスカー・ベーメもトランペット協奏曲もご存じないでしょう。私も或る人に出逢わなければ、この両者を知ることはなかったに違いない。
ベーメドレスデンに生れソヴィエト・ロシアに没したドイツ人演奏家、作曲家。『トランペット協奏曲 へ短調』は、ベーメがペテルブルクに居を移して2年後に書かれた、ロシア情緒溢れるロマン派協奏曲。