Mon Cœur Mis à Nu / 赤裸の心

「美」といふものは「藝術」と人間の靈魂の問題である

ムソルグスキー『ボリス・ゴドゥノフ(Борис Годунов)』1874

彌早、今宵のオペラも酷かった。新国立オペラは屡々私を失望させる。現代に於る鹿鳴館の猿共め。ムソルグスキーの音楽は良かった。オーケストラは及第。だが歌手、演出。これらが低劣極まる。歌はピーメン役を除いてあまりに貧弱。演出は軽佻浮薄で貧乏臭い。先鋭的なことを批難したいのではなく、やるにも中途半端だから観るに堪えないのだ。マーケティングにも失敗していると思う。歴史劇なのだから、堂々たるオペラを観たかった。

さて私の主観的な感想はもういい。少し音楽の話を。ムソルグスキーの『ボリス・ゴドゥノフ』。原作はプーシキンの戯曲である。「ロシア情緒」溢れるロマン派の秀作と云って可い。

 

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「ロシア情緒」という言葉を使った。それは何か?

ロシア情緒とは、まず主題に由来するものである。グリンカチャイコフスキーボロディン。他にもいるが、彼らほど音楽の主題を「自ら」に求めた民族はいない。『皇帝に捧げた命』、『1812年序曲』、『イーゴリ公』などをみよ。イタリア音楽やフランス音楽は、案外彼方此方から題材を採っているものだ。

 

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同時にロシア情緒とは、音楽的特徴でもある。それはつまり、正教会聖歌とロシア民謡の旋律を有するということ。より具体的には、一つの音程が直線的に続く4声による荘厳なハーモニー、長六度の感傷的メロディーを作品に取込み、それを聴く者にルーシの血を喚び起すような熱情を孕んでいるということだ。

 

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ドビュッシー「相思の人の死(La mort des amants)」『ボオドレエルの五つの詩(5 Poèmes de Charles Baudelaire)』1889


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ボオドレエル、『惡の華』の第121篇「相思の人の死」という4.4.3.4の十四行詩<ソネット>に、ドビュッシーが曲を付けた。詩は、相思の2人の愛と死、そして復活という主題。詩譯は齋藤磯雄氏のものを参照した。

 

Nous aurons des lits pleins d'odeurs légères,
Des divans profonds comme des tombeaux,

Et d'étranges fleurs sur des étagères,
Écloses pour nous sous des cieux plus beaux.
仄かなる香氣ただよふ臥床、はた
墓のごと深き寝椅子をしつらへて、
われらがために此處よりも美しき風土に
咲きいでし、奇しき花を棚に飾らむ。


Usant à l'envi leurs chaleurs dernières,
Nos deux cœurs seront deux vastes flambeaux,
Qui réfléchiront leurs doubles lumières
Dans nos deux esprits, ces miroirs jumeaux.
最期の熱を互に競ひつつ
心臓は燃ゆる二つの炬火となり、
そのふたすぢの炎をば、二人の靈に
映すべし、これや對なる眞澄鏡。


Un soir fait de rose et de bleu mystique,
Nous échangerons un éclair unique,
Comme un long sanglot, tout chargé d'adieux;
薔薇色と神秘の青にけむる宵、
われら交さむ、ひとすぢに閃く光、
別れを惜しみ堰きあへぬ嗚咽のごとく。


Et plus tard un Ange, entrouvrant les portes,
Viendra ranimer, fidèle et joyeux,
Les miroirs ternis et les flammes mortes.
暫し後、天使來りて、戸をひらき、
眞心こめて樂しげに、蘇生らしめむ
陰れる鏡を、更にまた消えし炎を。

 

実はヴィリエ・ド・リラダンもこの詩に曲を付けている。今日本当に書きたかったのは彼のこと。彼は幼少の砌からピアノを佳くし、アコンパニメントはお手の物であった。サロンでは即興も披露したと。しかし作曲を楽譜に書くということをしなかった為、彼のメロディは永劫この世から失われてしまった。そうした中で、啻唯一残っているのが「相思の人の死」である。ヴィリエからボオドレエルに宛てた手紙の中にハーモニー、伴奏の和音、すべてが記録されていた。その楽譜は以下である。

ラモー「未開人(Les sauvages)」或いは「平和な森(Forêts paisibles)」『優雅なインドの国々(Les Indes galantes)』1736 より


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ラモー作曲、オペラ=バレ『優雅なインドの国々』から。第4幕第6場のロンド。
ルイ王朝時代の音楽。ラモーにリュリ、フランス王国が誇る二大作曲家。

 

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【対譯】
Forêts paisibles,
平和な森よ、

Jamais un vain désir ne trouble ici nos coeurs.
ここでは虚しき欲望に心を乱されることがない。
S'ils sont sensibles,
人々に分別があるならば、
Fortune, ce n'est pas au prix de tes faveurs.
富など、彼らの好意に値するものではない。

Dans nos retraites, grandeur, ne viens jamais
偽りの栄誉よ、我らの隠れ家を訪れ、
o
ffrir tes faux attraits!
我らを誘惑すること勿れ。
Ciel, tu les as faites
天はこの森々を、
pour l'innocence et pour la paix
無垢と平和のため作り給うたのだから。

Jouissons dans nos asiles,
この地を愉しもう、

Jouissons des biens tranquilles!
穏かな日々を愉しもう。

Ah! peut-on être heureux,
あぁ、倖せになり得るだろうか、

Quand on forme d'autres voeux?
誰か異なる希望を抱く者が居たならば。

 

ドビュッシー『フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ(Sonate pour flûte, alto et harpe)』1915


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ドビュッシーによる三楽章から成るソナタ。フルート、ヴィオラそしてハープの三者の組合せは他では知らぬ。特に第二楽章、ヴィオラが良い味を出している。この曲は彼の死の3年前に書かれた。病に臥す日々の中で作曲されたからだろうか。その曲調は、あたかも陽が雲で見え隠れするように振れ、不安な印象を聴き手に與える。

今亡き最愛の人と木洩れ日の路を散歩した、かの日のことを想い出す時、この曲の靈しき調べが、我々の脳裡をかすめる事だろう。

 

楚々として 清らで美しいさま
浅葱 緑掛かった藍色
クレソン 和蘭芥子の別称
at large 逃亡中で

 

シベリウス『交響曲第4番イ短調』1911

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演奏会に初台まで出掛ける。演目はエルガーのヴァイオリン協奏曲とシベリウス交響曲第4番イ短調

シベリウスの第4番を通して鑑賞するのは初めてのことだった。古典的形式美を誇る前半のエルガーとは好個の対照を為しており面白かった。暗晦とか晦渋とか云われているが、暗晦な心を持つ人間にとっては、さながらBalulalowのようである。

アンコールは「愛の挨拶」。芸のない。

 

フォーレ「贈物(Les Présents)」『2つの歌(2 Mélodies)より』op.46-1, 1887


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数あるフォーレの歌曲の1つである。
詩はヴィリエ・ド・リラダンのもの。『残酷物語』に集録される「恋の物語」の第3篇、「贈物」が出典。
「恋の物語」に集録されている7篇の詩は、恋愛の眩惑、歓び、苦悩、そして忘却に至るまでをうたうのであるが、この「贈物」は恋愛の一番の歓び、すなわち心の交わりを詠んでいて、曲調もそれに相応しく、慈愛に満ちた穏かなものとなっている。

 

Si tu demandes, quelque soir,
或る夜、もし君が求めるならば、
Le secret de mon cœur malade,
僕の病める心の秘密を、
Je te dirai, pour t'émouvoir,
僕は語ろう、君の胸を打つため、
Une très ancienne ballade.
いにしえの譚詩を。

Si tu me parles de tourments,
もし君が苦しみを、
D'espérance désabusée,
醒めた夢を語るのであれば、
J'irai te cueillir, seulement,
ただ君のため、野に出て摘もう
Des roses pleines de rosée.
露にぬれた薔薇を。

Si, pareille à la fleur des morts
死者に手向ける、
Qui fluerit dans l'exil des tombes,
奥津城でも色褪せない花のように、
Tu veux partager mes remords...
君が僕の悔恨を分たんと望むなら、
Je t'apporterai des colombes.
僕は贈ろう、やさしき鳩を。

 

 

 

ウェーバー「狩人の合唱(Jägerchor)」『魔弾の射手(Der Freischütz)』より, 1821


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『魔弾の射手』第三幕にあるコーラス。残念ながら私はドイツ語を少しも解さない。Ich spreche kein Deutsch.

 

Was gleicht wohl auf Erden dem Jägervergnügen,
Wem sprudelt der Becher des Lebens so reich?
Beim Klange der Hörner im Grünen zu liegen,
Den Hirsch zu verfolgen durch Dickicht und Teich
Ist fürstliche Freude, ist männlich Verlangen,
Erstarket die Glieder und würzet das Mahl.
Wenn Wälder und Felsen uns hallend umfangen,
Tönt freier und freud'ger der volle Pokal!
Jo ho! Tralalalala!

Diana ist kundig, die Nacht zu erhellen,
Wie labend am Tage ihr Dunkel uns kühlt.
Den blutigen Wolf und den Eber zu fällen,
Der gierig die grünenden Saaten durchwühlt,
Ist fürstliche Freude, ist männlich Verlangen,
Erstarket die Glieder und würzet das Mahl.
Wenn Wälder und Felsen uns hallend umfangen,
Tönt freier und freud'ger der volle Pokal!
Jo ho! Tralalalala!

 

ドビュッシー『ペレアスとメリザンド(Pelléas et Mélisande)』1902

本日新国立劇場まで出掛けて鑑賞。クロード・ドビュッシーが完成させた唯一のオペラ。台本はメーテルランクの同名戯曲殆どそのまま。明確に異なるのは、私が確認した限り、メリザンドが窓辺に坐り、髪を櫛りながらうたう歌くらい(出典は何だろう?)。

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ゴローを演じたロラン・ナウリがインタビューで答えているように、この作品は幅広い解釈が可能。即ち淫靡、不貞な現実物語とするか、或いは、夢に生きんとする男女の魂の交わりを描く、永劫世界の物語とするか。まあメーテルランクを正しく理解していれば、後者の解釈以外あり得ないのであるが。本日のオペラの演出は、「全面的に」前者の立場から為されたものであった。だからであろう。愛の調べに於ては情念が前面に出ており、やや気が引けた。

その他気付いたことなど。
舞台装置は面白かった。光の強弱、色合いの多様さが、ドビュッシーの感覚的な音楽と相まって、良い効果を生んでいた。また歌手陣、オーケストラの技量に対しては多大に満足した。これ程のものを日本で観ることができれば十分。藤原歌劇団などとはレベルが異なる。

 

追記

女性の髪がポルノフラフィックな手つきで扱われることは問題だと思っていました。オペラでも例外ではありません。

演出者はかような考えを持っていたそう。私にとって当該場面は、「若きペレアスの無邪気な愛」を表す大切な場面であると思われ、低俗なポルノグラフィは感ぜられない。歪んだフェミニズムは芸術を損ねるものだ。

こうしたフェミニズムを発揮している割には、第三幕第四場でペレアスとメリザンドが服を脱ぎ互いの肉体を貪る演出など、モラルの欠如甚だしい。

全体として「卑俗な夢」をみているかのよう。「トリスタンとイゾルデ」を彷彿とさせる瑰麗無比な愛の調べを、主婦向けの情念的なメロドラマに下降させた演出家の力量には拍手。

ベートーヴェン『ピアノ協奏曲第3番ハ短調』


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ベートーヴァンのピアノ協奏曲を3曲通して聴いた。

第1番: 古典的ながらもベートーヴェンらしい雄大さを感じる。
第2番. 全体を通して明朗快活、第1番よりも古典的だと誰もが思う。そのはずで、書かれたのはこちらが先だ。
第3番: ドミソファミレドソドソド。唯一の短調。ハイリゲンシュタットの遺書を記した頃の作品。力強いパッセージ。

第3番をツィマーマンの演奏で。私にとってツィマーマンと云えば、ショパンのバラード第1番の録音、あれはperfectionだ。彼はcovid前には毎年日本でリサイタルを行っていた。2017年だったかな、京都にもいらしてた。

 

フランス民謡『フレール・ジャック(Frère Jacques)』


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輪唱形式で歌われるフランスに起源を持つ童謡。トムとジェリーでニブルスが歌っていた曲! 寝坊した修道士(Frère)が謡われている。

 

Frère Jacques, Frère Jacques,
修道士ジャック、
Dormez-vous? Dormez-vous?
お眠りですか?
Sonnez les matines! Sonnez les matines!
朝課の鐘を鳴らしてください!
Din, din, don. Din, din, don.
ディン・ドン・ドン

 

なぜゆくりなく、この話を持ち出したかと云えば、答えはマーラーにある。
マーラー交響曲第1番D-dur、第3楽章Feierlich und gemessen, ohne zu schleppen(緩慢でなく荘重に威厳をもって)の主題は、『フレール・ジャック』を短調(D-moll)にしたものだから。葬送行進曲風。

 


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まったく関係のないことだが、今King Learを読んでいて、面白いと思った表現があるから記録しておく。年齢を尋ねられたケント伯の受け答え、

"Not so young to love a woman for singing, nor so old to dote on her for any thing."

なんと訳せばよいか。「歌い手の女を愛する程に若くはありませんが、何の取柄もない女を溺愛する程に年老いてもおりません」。旧約聖書のシラ書第9章第4節を想い出したのだ。「歌い手の女と戯れてはいけない。彼女の魅力の虜とならない為である」。一般論として歌い手の女を愛することは、いわゆる「若気の至り」、愚かなことらしい。