Mon Cœur Mis à Nu / 赤裸の心

「美」といふものは「藝術」と人間の靈魂の問題である

プーランク『カルメル会修道女の対話(Dialogues des carmélites)』1957  

本ブログのテーマは副題として書いてある通り「美というものは、芸術と人間の霊魂の問題である」、即ち「芸術と信仰」である。だがこの頃は宗教色が強すぎると思っている。復活祭で一区切りをつけたい。

 

さて本日、四旬節第5主日の福音朗読箇所は「ラザロの復活」であった。キリストによって死は永遠の命へと向かう、その希望が告げられる。

この章でのイエスは「宮きよめ」の場面同様、感情を顕わにされる。心を傷め、悲しみ、涙をながし給ふ。私はイエス様のこうした側面が好きだ。イエス様は無機質な偶像ではない。愉しい時は笑うし(e.g.カナの婚礼)、悲しい時は涙を流すし、苦しい時には懊悩される。まさしく「人の子」なのだ。

だが、その「人の子」は、他の人間には決してできぬ事を成し給ふた。あの受難を忍ばれ、彼を十字架に磔り付けた当事者たる人々の為に祈り、完全なる愛によって、人類全体を永遠の死から甦らせた。だからこそ我々は彼に寄り添いたいと思うのだ。

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本題。主日ミサに与った後、真砂の区立図書館まで出掛けて、このCDを借りた。『カルメル会修道女の対話』は、独逸のカトリック作家、ゲルトルート・フォン・ル・フォールの歴史小説『断頭台下の最後の女(Die Letzte am Schafott)』のオペラ化作品。内容は「ラザロの復活」のテーマと大いに結びつく。

 

生来の自らの臆病、頼り無さに絶望した侯爵令嬢ブランシュは、コンピエーニュのカルメル会修道院に入会する。或る日修道女のコンスタンスは、同じ日に天に召される夢を見た、とブランシュに告白する。

時は折しも大革命の只中。修道女達は立法議会より、聖務禁止、還俗を命ぜらる。荒涼たる世の救済の為、生贄と為る事を望んだ修道女達は、副修道院長マザー・マリーの主導で「殉教の誓願」を行う決定をする。だがいざ誓願という時に、ブランシュは逃げ出した。

死刑判決を受けた修道女達は、サルヴェ・レジナを歌いながら一人ずつ断頭台へと登る。歌声は刃に消え、徐々に小さくなる。そして最後の修道女コンスタンスの首が落とされんとする時、彼女は群衆の中にブランシュの姿を見出した。コンスタンスは倖せに顔を輝かせながら死んでゆく。コンスタンスから歌を引継いだブランシュは、神の栄光を唱えながら、みなと運命を偕にした。

 

本オペラは「慎み深い宗教的音楽」として評価が高い。

私としては透徹で鋭く、無機質ながら心を動揺させる、冴えた音楽だと思った。印象的だったのは第三幕第四場のサルヴェ・レジナ。刃の落ちる毎に歌声が小さくなってゆく演出は精神に来る。「キリストによって死は永遠の命へと向かう」。だが録音だと修道女達の希望の表情が見えないから、怕しさが窮立ってしまう。

 

映画『神々と男たち』との類似。修道士、修道女と云う人達は、何故こうも強いのだろう。私は殉死の事を思うと気を喪ひそうになる。情けなく思う。ブランシュも私と同じ気持だったろうか。そうした自身を見限って、カルメル会へと駆込んだのだろうか。

 

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