Mon Cœur Mis à Nu / 赤裸の心

「美」といふものは「藝術」と人間の靈魂の問題である

20240317日記

晴れ、四旬節第5主日。目白聖公会の教会堂をお借りして、跪き、天使祝詞三環を捧げ奉る。本日彌撒に與つては居ないが、朗読箇所はヨハネ傳第12章だと思はれる。即ち、

 

一粒の麥、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん、もし死なば、多くの果を結ぶべし(ヨハネ12:24)

 

斯くてイエズスは審判の時の到来を群衆に述べ伝ひ給うた。

 

此の頃忙しく、文藝に親しむ事ができてゐない。何か読むとしても、それは仕事に係る社会科学の書物である、日記に残す事ではない。銘記すべきだ。我が人格は人文科学に拠りて陶冶された。それを忘却する時、私は怕しい空虚と向き合ふ事にならう。

 

昨日は同僚の華燭の典であつた。私には今時の友人が少ないので(云はずもがな)、教会或いは神社での挙式、ホテルでの披露宴といつた旧式のものでない、今時の結婚式に与るのは初めての事であつた。

 

ところで「今時の」の英訳に、私は困つた事がある。fashionable? modern? 偕に違ふと思つた。何故なら、私は屡々上の2語を受けるが、私は断じて「今時の」人間ではないからである。結局trendyが最もふさはしいと云ふ事で、私は納得した。

 

閑話休題。式は会場内の「チャペル」で執り行はれた。chapelとは一般にプロテスタントの用語である。司式は酒皶を帯びた肥満の白人男。疑ひやうもなく米国人であつた。その空間にシューベルトアヴェ・マリアが歌はれた時の私の混乱を、誰かに伝へたかつた。

披露宴。今日の結婚式では、デジタルコンテンツの活用が進んでゐる。式と披露宴との僅かな間に準備をするのだから、大したものである。食事。テーブルにはカトラリーが3つ用意されてゐた。これは私を狼狽させたが、繰り返し使へと云ふ事だつた。給仕の懶惰或いは傲慢とでも云ふべきものである。私はこのひそかなる意気消沈を悟られぬやう骨を折つたが、幸ひにして嬋娟なる花嫁の見目の良さが、全てを赦した。

 

私は新郎に云ふ。

 

夫たる者よ、キリストの教会を愛し、之がために己を捨て給ひしごとく、汝らも妻を愛せよ(エペソ5:25)

 

 

 

トリエント・ミサに於る告白の祈り(Confiteor)_羅和対訳(Latin to Japanese)

トリエント・ミサとは、トリエント公会議の後、1570年に聖ピオ五世が発布し、福者ヨハネ二十三世があらためて発布したローマ・ミサ典礼書に則つたミサの、便宜的な呼称である。

これに対し、第二バチカン公会議の精神に基づき、通例各地のvernacularで捧げられてゐるミサの事パウロ六世が発布したローマ・ミサ典礼書と云ひ、これは俗に新しいミサと呼ばれてゐる。

トリエント・ミサに於て、会衆は告白の祈り(Confiteor)を唱へる機会が二度ある。詩篇42が唱へられた後と、聖体拝領の前にである。下記は会衆が唱へる部分の対譯である。1人でも多くの人が唱ふる事ができるやう読み仮名も添へる。

 

Confíteor

(Confíteor Deo omnipoténti,)
コンフィテオ デオ オムニポテンティ
全能の天主

beátæ Maríæ semper Vírgini,
ビアテ マリエ センペル ヴィルジニ
終生童貞なる聖マリア

beáto Michaéli Archángelo,
ビアト ミカエリ アルキアンジェロ
大天使聖ミカエル

beáto Joanni Baptístæ,
ビアト ヨアニ バプテステ
洗者聖ヨハネ

sanctis Apóstolis Petro et Paulo,
サンクティス アポストリス ペテロ エト パウロ
使徒聖ペトロ、聖パウロ

ómnibus Sanctis, et tibi, Pater:
オムニブス サンクティ エト ティビ パテル
及び諸聖人と司祭とに向ひて

quia peccávi nimis cogitatióne, verbo et ópere:
クィア ペカビ ニミス コジタチオネ ヴェルボ エ オペレ
我は思ひと言葉と行ひとをもて多くの罪を犯せし事を告白し奉る

mea culpa, mea culpa, mea máxima culpa.
ミア クルパ ミア クルパ ミア マキシマ クルパ
(胸を三度叩き乍ら)これ我があやまちなり、我があやまちなり、我がいと大いなるあやまちなり

Ideo precor beátam Maríam semper Vírginem,
イデオ プレコ ビアタム マリアム センペル ヴィルジネム
これに拠りて終生童貞なる聖マリア

beatum Michaelem Archangelum,
ビアトゥム ミカエレム アルキアンジェルム
大天使聖ミカエル

beátum Joánnem Baptístam,
ビアトゥム ヨアネム バプティスタム
洗者聖ヨハネ

sanctos Apóstolos Petrum et Paulum,
サンクトス アポストロス ペトゥルム エト パウル
使徒聖ペトロ、聖パウロ

omnes Sanctos, et te, Pater,
オムネス サンクトス エト テ パテル
及び諸聖人と司祭とに

oráre pro me ad Dóminum Deum nostrum.
オラレ プロ メ アド ドミヌム デウム ノストルム
我が為に我らの主なる天主に祈られん事を願ひ奉る

中村義洋『ゴールデンスランバー』2010_竹内結子に就ての覚書

ゴールデンスランバー』といふ映画を見た。コメディ調で趣味では無いと思つたが、竹内結子が出演してゐるとの事で。竹内結子ファンの方の推薦。

 

私は小学生の頃から、好きな女優を問はれると必ず竹内結子と応へて来た。彼女の追つかけではない。出演作品も数作しか知らない。だが『いま、会いにゆきます』といふ映画で彼女を知つて以来、私は囚はれてゐるのだ。上の画像はその映画から。黒き髪と眸、それと好個の対照を為す白絹の肌。気品に満ちた立居姿には、貞潔の白きローブがよく似合ふ。

 

だが一体、かくも私を魅了するのは、彼女の何であらう。それは唯物的な見目形以上のもの、彼女の表情(countenance)である。彼女は何かを思ひつめたやうな表情を作るのが上手く、その表情に拠つて「悲しみを裡に秘める女性」を演出する。

 

「裡に秘める」と云ふのが要点である(大びらに不幸を喋々する女の何が魅力であらう)。かうした表情とはニュアンスに過ぎぬから、その悲しみの詳細を、男はつひに摑む事ができない。摑み難き何者かの存在が、彼女に卓越性と神秘性の面帕<かほぎぬ>を纏はすのだ。彼女はチュリヤ・ファブリヤナ侯爵夫人さながらの永遠の女性、メリザンドさながらの妖精である。私が彼女を崇拝する理由はこれで十分だらう。

 

この稀世の女優は数年前に縊死した。有名人の死に対して悲しみを覚えるのは、これが初めての事であつた。

 

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リヒャルト・シュトラウス『ヴァイオリンソナタ 変ホ長調 』1888

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リヒャルト・シュトラウスが遺した唯一のヴィオロンソナタ。3月になると思ひ出す。或る人が好んで弾いてゐたのだ。彼女はヴィオロン奏者であつた。彼女は深碧色のドレスでステージに立ち、いつも不機嫌さうに演奏するのだ。私の前でバッハを弾く時には笑ふのに。

 

ブッツァーティ『タタール人の砂漠(Il deserto dei Tartari)』1940

私は満足するすべを知ったんだ。年ごとに望みを小さくしていくことを覚えたんだ。

 

雨、四旬節第二主日(2ème dimanche de carême)。神田教会でミサに与る。ミサ曲は第17番が歌はれた。今日の神父様のHomilyをどう形容しやうか一寸考へて、"Tender and meek like a sacred tale"に落ち居た。神父様はパリ外国宣教会の宣教師だつたが、味はひ深い説教であつた。

 

ディーノ・ブッツァーティは20世紀伊太利の作家である。大学の後輩の薦めで本作を読む事にした。ブッツァーティは不条理の作家と呼ばれてゐるやうだが然り、主人公ジョヴァンニ・ドローゴは人生の不条理を味はふ。

 

時代も場所も定かではないし、重要でもないが、移動手段や武器の描写から19世紀中葉である事、作者自身の経験から伊太利北部の山岳地帯を想定してゐる事は判る。

 

特別な人生を期待する者達を嘲笑ふ物語。世の人間の大半は、その短き青春を了へると、組織てふ小宇宙の中の一分子となる。そして冷酷に遁走する時の流れに身を任すまま、惰性の裡にただ年老いてゆく。

 

多数者はこの事実を意識せぬままに受容し、ありきたりの人生を謳歌する。だが一部の少数者は、さうしたありきたりを「不条理」と看做して受容れず、ありもしない希望にしがみ付かうとする。ドローゴもその一人だ。彼の置かれた環境が「辺境の無用な要塞」である事が、彼の焦燥を際立たせたのかも知れない。

 

先に述べたが、物語はさうした少数者を嘲笑ふかのやうに進行してゆく。この少数の愚か者共は、ありきたりの人生がもたらす幸福でさへも失ふ結果に了るのだらう。私自身がさうである。

 

物語が暗示してゐるが、かうした現世の「不条理」に艱難する人間の救ひは、人をそれから解き放つ「死」のみである。「死」こそは万人に約束された、人生の一大事である。なれば人は、洋々として「死」を迎ふる為の準備にこそ、心を向けるべきではないか。そしてそれを助けるは、人間の生と死を哲学し切つたカトリシスムあるのみだと、私は銘記しておきたい。

 

 

vernacular 現地語の
hyssop シソ科の多年草

doxology 栄唱(Gloria Patri...)
antiphon 交唱
Quadragesima 四旬節
隘路(あいろ) 進行の難所
bring with it もたらす
ゴンザーグ・ド・レイノルド 20Cスイスの伝統主義者
ルイ・ド・ボナール 18Cフランスの反革命哲学者

affect an air of detachment 無関心を装う
cedar pollen スギ花粉
indolence 怠惰
mould カビ
musty カビ臭い
光暈(こううん) 輝いているものの周辺に見える淡い光のかさ
誰何(すいか) 身元確認すること
営倉(えいそう) 軍律違反の軍人を収容する施設
角灯(かくとう) ランタン
象嵌象眼(ぞうがん)
押しも押されもせぬ 確かな実力を具えていること
虻蜂取らず 欲張りすぎて失敗すること
dominatrix 女主人
double tongue 二枚舌
sterile 不毛な(=barren) ↔ fertile 肥沃な
把手(はしゅ) 手に握る部分、取っ手
天佑(てんゆう)
破顔一笑(はがんいっしょう) にっこりと笑う様子
風発の感(ふうはつのかん) 弁論などが勢いを増すこと
bucket list やりたい事リスト
conscientious objection 良心的兵役拒否

ヴェンダース『都会のアリス(Alice in den Städten)』1973

晴れ。銀座三越で買ひ物中、大学時代の友人2人から電話、新橋にゐるから飲まうと。休日の新橋は白けてゐるので、新宿に移動し、バガボンドでグラスを傾ける。いつもこの店だ、この店が無ければ私はどうなるのか。

 

新文芸坐ヴィム・ヴェンダース特集があつた。『パリ、テキサス』の4Kリマスター、もといナターシャ・キンスキーの4Kリマスターを目的に出かけた。

 

はじめに上映されたのが『都会のアリス』だつた。ヴェンダースは本作を皮切りに、ロードムービーを数多く手掛ける事になる。煤で汚れたルールの街並み、ヴッパータールの空中鉄道。畢竟ロードムービーとは貴重な史料である。

 

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20240214日記

Ash Wednesday, it means the first day of Lent. 巴里ではDeus Genitor alme<施しを齎す神>が歌はれたであらうか。尚ほ嘗て2月14日は聖ウァレンティヌスの記念日であつたのだが、第二バチカン公会議の際に削除された。

 

新聞に目を通す。政治資金問題が紙面の大部分を占める。政治とは数である。追従者を集めなければ政治は不可能だ。手つ取り早く人を従はせるには金が要る。悲しい哉、人間の本質たる金銭信仰を利用する訳だ。窮めて合理的。さういふ訳だから、私は政治と金の不正に対して、さほど憤慨を感じない。

 

とはいへ、本件を問題視し騒ぎ立てる行為は、それが崇高な目的に起因するものでないにしても、立派なものだと思ふ。言論の自由を奉じる民主主義社会の自浄作用と云へるかも知れない。民主主義の美点である。

堀辰雄『ルウベンスの偽画』1927

彼女の顔はクラシックの美しさを持っていた。(...)彼はいつもこっそりと彼女を「ルウベンスの偽画」と呼んでいた。

 

ルーベンス国立西洋美術館にも何枚かは所蔵があつたと思ふ。ルーベンスの、陽光を帯びる鮮やかな色づかいは、確かに比類なく美くしい。だが彼の筆致は宗教画向きではない。彼の描く人間、薔薇色の肌を持つ人間は、生き生きとし過ぎてをり、背徳的ですらある。

 

主人公の年齢は定かでないが、恐らく十八から二十四の青年。年の割に少年の多感さを残してゐる。彼は恋愛に初心で、その気性にコンプレックスを抱いてゐるやう。本作はそんな彼の精神を分析する、フランス式の心理小説である。

 

以前、『聖家族』の時にも書いたが、堀辰雄の小説は、その文体と云ひ背景と云ひ、彼固有のものだ。労働者階級の逞しさとは無縁の、光芒の儚さを有する。

 

優雅とは無縁の女。ただ世に疎い事を優雅とは云はぬ。優雅とは卓越性である。人品骨柄に優れ、その挙措は秀抜、且つ才知(学識ではない)を有してゐなければ、断じて優雅ではない。残酷なやうだが、弱者、醜女は優雅たり得ない。

 

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バーリン「ジョゼフ・ド・メストルとファシズムの起源(Joseph de Maistre and the Origins of Fascism)」1990

五旬節。ほんのすさびに高等学校の卒業アルバムを開いて見る。吐き気。青春とはグロテスクなものである。

 

ユダヤ人思想史家アイザイア・バーリンによるジョゼフ・ド・メーストルの思想研究。著者は原典を豊富に引用し乍ら、それらに中立的解釈を施して、総合的検討を行ふ。効果的に挿入される他思想家との比較が、ド・メーストルの独創性を浮彫にしてをり、大変面白い。

 

その一方で、「ファシズムの起源」という題名を掲げる割に、ファシズムとの連関を示す記述は少ない。二〇世紀前半を生きたユダヤ人にとつては自明の事かも知れぬが、ファシズムに就いてもう少し書くべきだ。ド・メーストルの思想が二〇世紀ファシズムを準備した、斯う云ふ主張を目的とする論文ではない事を、読者は予め諒解して置くがよからう。

 

核心にある暴力の教義、暗黒の力の信仰、人間の自己破壊本能を矯正し、これを救済のために用いることを唯一可能にする鉄鎖の賛美、理性に反する盲目的な信仰への訴え、神秘的なものだけが生き残り、説明はいつでも弁解だという考え、血と自己犠牲の教義、民族の魂を河川が流れこんで一つになる広大な海にたとえる教え、自由主義個人主義の不条理、そしてなによりも反抗的な批判的知識人の破壊的影響に対する批判――これらの旋律はたしかにわれわれが後になって聴いたものである。理論としてはともかく、実践においては、ド・メストルの深く悲観主義的なヴィジョンはわれわれの世紀の、左右両方の全体主義の核心である。

 

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20240203日記

峻厳なる生活のよろこびをさとれ、而して祈れ、絶え間なく祈れ。祈禱は力の貯蔵所だ。意志の祭壇、精神の力学、秘蹟の魔法、霊魂の衛生。(ボオドレエル『火箭』)

 

昨日はマリア清めの祝日であつたから、今朝目黒教会へ行き、ロザリオ三環を捧げて来た。帰るさ、咲き誇る白梅を見る。

自己を規律すると云ふ事が、これからは今以上に重要である。自己規律は、善を欲しながら悪を為すと云ふ、惨めなる人間の傾向をよく弁へ、謙虚に生きる事で可能となる。神が私を悪から救つてくださるやう、不断に祈る事。

私の生活の永遠の規則。即ち、亡き祖父とボオドレエルとを仲介者として、我々を裁き且つ赦し給ふ神に、毎朝ロザリオ一環の祈りを捧げ奉る事。

 

Yesterday was the feast of the purification of the Blessed Virgin Mary, so I went to Meguro Church this morning to offer the three rings of the Rosary. On my way home, I saw the white plum trees in full bloom.

Self-discipline is more important than ever from now on. Self-discipline is made possible by living humbly and with a good eye on our miserable human tendency to do evil while desiring to do good. Praying constantly that God will deliver me from evil.

The eternal rule of my life. To pray the Rosary every morning to God, who judges and forgives us, through the intermediary of my late grandfather and Baudlaire.

 

主よ、今こそ御言に循ひて
僕を安らかに逝かしめ給ふなれ
わが目は、はや主の救を見たり
是もろもろの民の前に備へ給ひし者
異邦人をてらす光
御民イスラエルの栄光なり

(シメオンの歌「ルカ傳2:29-32」)