Mon Cœur Mis à Nu / 赤裸の心

「美」といふものは「藝術」と人間の靈魂の問題である

ド・メーストル『サン・ペテルスブルグの夜話(Les Soirées de Saint-Pétersbourg)』1821_戦争論に就ての覚書

人類進歩を信ずるのは怠け者の学説だ。進歩(真の進歩、即ち精神上の進歩)は、唯々、個人の中にしか、また個人自身によつてしか、あり得ない。(ボオドレエル『赤裸の心』九)

 

さりながら、何といふ驚くべきことであらう、我々の理解から最も懸け離れてゐる秘義、即ち原罪遺伝の秘義が、それなくしては我々がおのれ自身について何等の理解をも得ることの出来ぬ一事であらうとは。(パスカル『パンセ』四三四)

 

『聖ペテルスブウル夜話』は、カトリシスムの思想家、ジョゼフ・マリ・ド・メーストル伯爵(Joseph Marie de Maistre)の哲学が端的に表される対話篇。そのスコープは廣く、罪と罰、戦争と革命など。1948年中央出版社上梓、岳野慶作氏による翻譯。

 

私が興味を覚えたのは「戦争」との副題が附された「第七の対話」と、「犠牲」を論じた「第九の対話」である。此処に記されてゐたのは、罪なき者に犠牲を強ひる摂理的戦争論。このド・メーストルの冷然たる戦争観に就て、ユダヤ人思想史家アイザックバーリンは「ファシズムの起源」と評したといふ。

 

 

摂理的視座を有するド・メーストルは、戦争が無意味に為されてゐるとは考へず、戦争を「神的」なものと説いてゐる。といふのも、平生「雌鶏一匹殺すのでさへ」厭はしく思ふ人間が、戦争では善良なる人々を熱狂して殺戮するといふ事実は不可解である為、そこに神の一般法則が働いてゐると考へるのだ。

 

では神の一般法則とは何か。それは、自由意志を与へられし人間が、その傲慢性に拠りて地上に無秩序を生ぜしむる罪を犯した場合、それを戒める罰として、戦争(暴力)が現れるといふ考へである。

ここで云ふ罪は、原罪とは異なる。何故なら、ド・メーストルにとつて原罪とは、人間の二重性(善を見、それを愛し、しかも悪を為す傾向)を説明する理論であつて、人間の行動に伴ふ罪ではないからだ。

戦争(暴力)を惹起する罪を敷衍すると、それは原罪を忘れる罪だと云へる。然り、カトリシスムの最たる秘義、原罪遺伝を忘却するとは、人間性の全てを抛棄すると同じい行為であり、大罪と呼ばざるを得ぬ。

そして、この罪と罰の顕著な例こそが、フランス革命であつた。大革命の遂行、即ち近代的傲慢に冒された人間が啓蒙思想を寄り恃んで秩序破壊に走つた時、人間性の聖なる法は踏み躙られ、フランスは暴力に支配された。

 

しかし、何故神はかかる罪を人類に自覚させる為、戦争といふ手段に愬へるのであらうか。純然たる事実として、戦争では罪なき者も死ぬ。本質的に善を愛する神が、何故敢へて彼らを罰し給ふのか(ここからが一等混乱する。ド・メーストルは罪なき者は存在しないとも述べてゐるからだ)。

これを説明するのは代替性と犠牲の論理である。代替性の教理とは、斯の「我らの繁栄の為に彼らを犠牲に供す」といふ、古来の教理の事である。無論キリスト教に於て人身供与は禁じられており、意識的にこれを行ふ異教儀式を批判するが、ド・メーストルに拠れば、キリスト教徒はこれを摂理として無意識に行つてゐる。それが戦争に於る、罪無き者への殺害行為だ。

 

罪の増すところには恩惠も彌増せり(『ロマ書』五:二〇)

 

罪無き者の殺戮を強制されるとは、何と苛烈な罰であらうか。されど人民がカトリシスムに生きてゐる限り、流された罪無き者の血は、秩序恢復の礎となり得る。といふのも、戦争を生き残つたキリスト者は、罪無くして死んでいつた犠牲者とイエズスの受難とを重ね合はせるので、犠牲者に対する連帯の感覚を養ひ、延いては地上に於る神の愛の実現へと、駆立てられる事となる。こうして神は、罪無き者の死を依り代として、人間に秩序再建を促すのである。

 

抑ゝ人間とは如何なる怪物であるか。如何なる珍奇、如何なる妖怪、如何なる渾沌、如何なる矛盾の主、如何なる驚異であることか。萬象の審判者にして、愚鈍なる蚯蚓。眞理の受託者にして、曖昧と誤謬の掃溜。之を要するに、宇宙の栄光にして屑。(パスカル『パンセ』四三四)

 

以上が、ジョゼフ・ド・メーストルの戦争観である。

ド・メーストルは、原罪論に根差す人間性への深き洞察を有してゐた。彼は人間の非合理性を知ればこそ、敢へて摂理的視座から戦争を観ずる事に由り、神の愛に依拠した平和構築の道を人々に示した。畢竟、自己の二重性を前にして「噫われ悩める人なるかな、此の死の體より我を救はん者は誰ぞ*1」と絶叫する人間に平和を與へ得るのは唯ゝ信仰である事を、彼はいみじくも看破してゐたのである。

ド・メーストルの思想は19世紀に於てさへ、非科学的、反動的はたキリスト者の妄執と嘲笑はれた。だがカトリシスムの伝統たる人間性への洞察を基にする、堅牢なるド・メーストルの戦争論に対して、人類全体の進歩てふ絵空事に依拠する啓蒙思想家の論説が一体如何程の説得力を持つものか、私には甚だ疑問である。

 

さらば凡て我がこれらの言をききて行ふ者を、磐の上に家をたてたる慧き人に擬へん。雨ふり流みなぎり、風ふきてその家をうてど倒れず、これ磐の上に建てられたる故なり(『マタイ傳』七:二四)

 

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*1:ロマ書七:二四