邪曲にして不義なる代は徴を求む (マタイ傳16:4)
ボオドレエルへの思慕から、私はド・メーストルを勉強する事にした。本書は、国語で読める殆ど唯一のド・メーストル研究書であるといふ。だが目的から云へば、喩へ外国語であつても、文学史上の影響を論ずる文献に当たれば良かつた。何かを書ける程に、本書を理解できたとは思つてゐない。
先づ副題を読む。「革命・戦争・主権に対するメタポリティークの実践の軌跡」。メタポリティークとは? メタは「超ふる」、ポリティークは「政治」で「超政治」。何となく言葉の意味は理解できた。だが革命・戦争・主権、これら「政治的」なものに対する、「超政治」の実践とは何だらうか?
ド・メーストルは、パスカルに通ずる人間観を有してゐた。即ち、原罪に起因する人間の二重性を観察してゐた。人間は善を望み乍ら悪への絶えざる傾向を有す。ルソーの言葉を借用すれば「(人間は、)善を見、それを愛し、しかも悪を為す」。斯くも堕落した人間が自らの意志で秩序を形成する事は不可能であるが、神の道具たる人間は、悪を為し乍らも、知らず知らずに秩序を形成してゐるのだ。
この悪を受容する態度、摂理的視座がド・メーストルのものの考へ方である。この考へ方の事を超政治=メタポリティークと呼んで差し支へない。諸兄は本書の通読により、摂理的視座を持ち合はせるド・メーストルなればこそ可能であつた政治論理の展開を見るだらう。同時にまた、19世紀てふ大物質時代を迎へた、摂理論の限界をも。
安楽椅子に坐し、ストーヴに当る。ブラームスの交響曲、ドヴォルザーク及びエルガーのチェロ協奏曲が流れる。読書をする。精神への効験あらたかである。