Mon Cœur Mis à Nu / 赤裸の心

「美」といふものは「藝術」と人間の靈魂の問題である

九鬼周造『「いき」の構造』1930_(2)客観的表現

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晴のち雨、暑し。昼食にガルバンゾと黄ビーツのサラダ。イエズスの御心の祝日、築地教会でミサに与る。De AngelisとSalve Regina

 

扨て、曩の続き。書の前半では意識現象としての「いき」が考察された。「いき」とは、「『意気地』と『諦め』とによつて完成された『媚態』」を質料因とする、我が民族に固有の特殊概念であつた。後半では客観的表現の形を取つた「いき」が、具体列挙される。

 

1. 自然的表現(身体的発表として)

・正式よりも略式、明示よりも暗示、一元性よりも二元性。平衡を打破して二元性を措定する点に「媚態」が表現され、「いき」が生まれる。

 

・「湯上り姿」。裸体を回想として近接の「過去」に持ち、あつさりとした浴衣を無造作に着てゐるところに、「媚態」が表現を全うしてゐる。

 

・「抜き衣紋」。衣紋の平衡を軽く崩し、異性に対して肌への通路をほのかに暗示する点に「媚態」がある。ローブ・デコルテのやうな明示との違ひ。

 

・「銀杏髷、楽屋銀杏」。丸髷や島田といつた正式よりも、髪の形を崩すところに異性へ向つて動く二元的「媚態」が現れ、その崩し方が軽妙な点に「垢抜」が表現される。然るにメリザンドの髪に「いき」な所は少しもない(崩れ過ぎ、直接に過ぎるのだらう)。

 

2.芸術的表現

・客観的芸術(絵画、彫刻、詩)と主観的芸術(模様、建築、音楽)。前者は、上述の「自然的表現」を具体的に描写することができる為に、「いき」を芸術形式として客観化することへの関心と要求を感じない。

 

・主観的芸術は具体的な「いき」を内容として取扱ふ可能性を多く持たないために、抽象的な形式そのものに表現の全責任を托し、その結果、「いき」の芸術形式は却つて鮮やかな形をもつて表はれて来る。

 

・模様としての縦縞。永遠に動きつつ永遠に交はらざる平行線は、二元性の最も純粋なる視覚的客観化である。曲線はすつきりした、「意気地」のある「いき」の表現には適さない。「いき」には曲線では表はせない峻厳さ、冷い無関心がある。

 

・建築における材料の使ひ分け。木材との二元的対立としての竹材、杉皮の使用。永井荷風は云ふ「竹材の用ゆる事の範囲並に其の美術的価値を論ずるは最も興味ある事」。しかしかうした区別は煩雑に陥らぬこと。

 

・重要なのは、以上の客観的表現を出発点として、「いき」の闡明を計ることはできないといふこと。客観化は種々の制約の下に成立する。客観化された「いき」が意識現象としての「いき」の全体を、その広さと深さに於て具現してゐることは稀。故に「いき」の構造研究は、民族的存在の解釈学としてのみ成立し得る。

 

以上、面白いと思つた箇所を抜粋要約した。

 

私は曩に、意識現象としての「いき」とダンディスムとの比較を行つた。九鬼もまた、稿のまとめに於てダンディスムに言及してゐる。ダンディスムは個人(男性)の体験によるもので、我が民族的体験としての「いき」とは全然意義を異にするとし乍らも、その構造に近似性を認めてゐるやうだ。

九鬼はボオドレエルの『惡の華』に、「諦め(来し方の夢)」と「意気地(エレガンスの教説)」を見た。だがその一方で、キリスト教の影響の下に生立つた西洋文化にあつては、「尋常の交渉以外の性的関係は、唯物主義と手を携へて地獄に落ちた」として、「媚態」の可能性を否定する。流石の炯眼である。まさしくダンディーに「浮気心」は存在しないのである。