Mon Cœur Mis à Nu / 赤裸の心

「美」といふものは「藝術」と人間の靈魂の問題である

リラダン『アクセル(Axël)』1890 再読

余暇を利用してヴィリエ・ド・リラダンの『アクセル』を再読。ヴィリエの精神的な遺書とも呼べる本作品は、至高の理想主義に彩られ、至純の美に耀く。

 

ledilettante.hatenablog.com

 

さる公爵家の最後の娘サラ・ド・モーペールは、年古る尼僧院にて、修道の誓いとともに神に捧げられんとしている。
父祖伝来の古城で孤高の生活を送るアクセル・ドーエルスペール伯爵は、導師たるジャニュス先生から理想主義の薫陶を受け、うつしよからの解脱を図る。
しかしサラもアクセルも、ふとしたことから「黄金の夢」に眩惑され、理想主義的な世界から現世へと下降する。前者は神への献身<宗教>を、後者は解脱への苦行<哲学>を「抛棄」することによって。
理想を抛棄したサラとアクセルは、ドーエルスペール家の財宝の瀑布の前で邂逅する。
アクセルはサラのこの世ならぬ美貌に屈し、同時にサラもアクセルの崇高なる精神に惹かれる。恋<情熱>が倏忽と二人の魂を捉えた。しばし二人で、恋と黄金とが可能にする、地上のあらゆる栄耀を夢想する。
併しながらアクセルは夢から覚めて言う。

外界は、実存の熾烈さに於て、我々が今しがた生きた数時間のうちの一秒間に匹敵するやうな、唯の一時間も我々に與へることが出来ない。(...)わたしはかふ思ふ、もはや我々には地上に於て為すべきことが何一つない、と。

現実に対する極度の絶望。久遠の伉儷は毒を頒って人生を「抛棄」することに決する。

さあ、無限だけが偽らないのですから、それ以外の人類の言葉を忘れ去って、わたくしたちの同じい「無限」の中へと飛び立ちませう。

十全無瑕を求める者は死の中に逃避するしかない。『アクセル』が示したのは、こうした人類の悲痛な宿命である。「常識」を以てして本作品を解読することは不可能であろう。貴人の矜持を失わず、世の低俗との戦闘を誓う、精神的アリストクラートの聖書である。

 

確かに、あの修道院で、わたくしは残酷な眼を見ました。その眼の中では「信仰」が、死刑執行人の松明を反射しなければ燃え上がらないのでした。あのやうな眼には、大空も十分に暗澹としてゐるとは思へず、火烙台から立ち昇る煙がその雲をもつと厚くすることが必要だと感じてゐるのです。その人たちの威嚇的な心臓の高鳴りをわたくしは耳にしました、さういふ心に於ては、神に対する......いいえ、神について彼等の抱く観念に対する、ですわね! 狂ほしい「恐怖」の情が、自らを「愛」なりと思ひ込むほどに、盲目的なものになつてゐるのです。そこでは≪智恵の初め≫が、慢心して、おのれの限界を忘れ、おのれこそ≪全能≫なりと思ひ違へてゐるのです。(p.231)

 

鍾愛(しょうあい) 大切にして可愛がること
笏(しゃく)
笏杖(しゃくじょう) 杖のこと、sceptre。
銘句(めいく) エピグラフ、文書の巻頭に置かれる短文のこと
顔(かんばせ)
共誦(きょうしょう) 共に聲をだして読む、暗誦する
尼僧(にそう)
無量無辺(むりょうむへん) 物事の程度がはかりしれないこと
清掻(すががき) 和琴の手法
勿怪の幸い(もっけのさいわい) 思いがけず訪れた幸運、僥倖
稚ない(いわけない) 分別がなく子供っぽく見えるさま
嶇しい(けわしい)
崎嶇(きく) 人の世の容易でないこと、また辛苦すること「崎嶇たる人生」
倏忽(しゅっこつ) 時間がきわめて短いさま

リラダン『反抗(La Révolte)』1870

短い生涯のうち四年の間、おのが精神力を抑へつけてやつた妥協が、その精神力を弱めてしまつた!今更どうしやうもない!(...)試練は終つた。わたくしは敗れた。

リラダンによる三幕からなる戯曲。
1868年、作者三十歳の時に創作されたと推定されている。1870年パリのヴォードヴィル座で初演、失敗。同年、初版をルメール社より上梓。
ワーグナーと親交を結んでいたリラダンは、彼の前でこの作品を朗読し、深い感銘を与えたと記録されている。

俗物の「上流人士」の妻として四年の時を耐え忍んだ女は、彼から離れ、夢にみた幽玄の世界で生きようと行動を起こすも、自身が「社会生活」に毒されてしまったことに気付き、すべてを諦める。理想に生きんとする人の完膚なき敗北を描く作品。

 

リラダン『幸福の家(La Maison de Bonheur)』1885

この二つの魂は、曙の光を見ぬうちから、生まれながらの純潔に耀いて、あたかも郷愁に悩むがごとく、「天上」の事物をのみひたぶるに慕ひ求むる一種遣瀬なき情熱を授けられて、その姿を現したのであつた。

リラダンによる短篇。初出は1885年『ラ・ルビュー・コンタンポレーヌ(La Revue contemporaine)』誌にて、ついで『新残酷物語(Nouveaux Contes Cruels)』1888、『奇談集(Histoires insolites)』1888に集録。

リラダンの深遠な思想と、幽玄な夢が、率直に語られる名篇。選ばれし久遠の伉儷、双の霊魂が完全なる調和のもと、至上の生活を営むという物語。形而下の描写はなく、筋書の発展もない。「彼處、悉皆は、秩序と美、奢侈、静寂、はた快楽」という本篇のエピグラムは、ボオドレエルの『旅への誘ひ』から採られているのであるが、正に本篇は、かの詩を散文に置換えたものに他ならない。

うつしよを「忘れ去る権利」をかち得た人々は幸いである。哀しい哉、私にそれは無いのだ。

 

夢想するとは

夢想する、とは、先づ第一に、「愚かしさ」より千倍も賤しい劣等な精神の、至高権力を忘れ去ることです!それは永遠の掠奪者共の手の施しやうもない喚き聲に耳を塞ぐことです!それは各人が堪へ忍び萬人が相手に蒙らせてゐるあの汚辱、あなたが社会生活と呼んでいらつしやるあの汚辱を忘れ去ることです!それは良心に反するあの自稱の義務、卑しい目先の利得を求める慾心以外の何物でもない、あの自稱の義務を忘れ去ることです!その慾心に免じて、見棄てられた人々の悲惨を前にしてもあつけらかんとしてゐられるのですね!夢想するとは、自己の思想の奥深くに、外部の現実がわづかにその反映にすぎないやうな、幽玄な一世界を静観することです!......それは死の中に、すでに差迫つた死の中に、不敗の希望を強化することです!それは「不滅」の中に自己を取戻すことです!それはおのれを孤獨である、しかし永遠であると感じることです!それは河川が海に流れ入るやうに、自由に、理想の「美」を愛することです!その他の娯楽や義務は、わたくしが生きることを強ひられてゐるこの詛はれた時代にあつては、ひと目の太陽にも値しません。結局、夢想する、それは死ぬことです。しかし少くともそれは、黙々として、天空の一片を眼に入れて死ぬことです!わたくしはもうそれだけしか望みません!

ヴィリエ・ド・リラダン『反抗』

 

 

オリバー・パーカー『ドリアン・グレイ(Doriangray)』2009

オリバー・パーカー(Oliver Parker)監督作。オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』を原作としているが、オリジナルの要素が強い。本作はこれまで何度か映画化されているから、変化を付けたかったのだろう。ちなみにパーカーは、同じくワイルドの喜劇『真面目が肝心』の映像化も手掛けてる。

 

ledilettante.hatenablog.com

安っぽいゴシック映画、いやむしろテレビドラマのような印象を受けた。CGで遊びすぎている。せっかく服飾や装飾へのこだわりが感じられるのに、勿体ない。
またオリジナル部分の脚本についても、それを追加することで、物語をどう変化させたかったのかが分からない。尺を伸ばしたかった? それであれば、ドリアンとシェイクスピア俳優シヴィル・ウェインとの恋愛を深堀りすべきであったろう。何故ドリアンがシヴィルを愛し、何故シヴィルから心が離れたのか(ここが重要)。偶像崇拝者の心の移り気を、全く描けていない。原作を愚弄する、愚かな監督だ。こんな人間がシェイクスピアの『オセロ』も手掛けたというから、笑わせる。

チャールズ・スターリッジ『天使も許さぬ恋ゆえに(Where angels fear to tread)』1991

フォースターの小説『天使も踏むも恐れるところ(Where angels fear to tread)』を原案とする映画。チャールズ・スターリッジ(Charles Sturridge)監督作。他のフォースターの小説同様、異なる人間が互いを理解する可能性と困難とを描いているが、本作にみられる人間の罪深さの描写は比肩に絶する。

プロットはこう。straight-lacedな英国upper-middle家庭の娘が、旅行先のイタリアで恋に落ちた貧しい村人と結婚をし、子供を死産する。残された家族が、(それが最良のことと身勝手に考え)子供の親権を奪いにイタリアに赴くが...。

 

華燭の典(かしょくのてん) 結婚式のこと
忸怩たる(じくじ) 深く恥じいること
ファーブルトン ブルターニュ地方の焼き菓子
竜頭蛇尾(りゅうとうだび) 画竜点睛を欠くこと、初めの勢いは良いが、終わりは振るわないこと
パピルス 古代エジプトで使われた文字の筆記媒体、パピルス紙。paperの語源。
hearse 霊柩車
しかすがに それはそうだがしかし
たまゆらの ほんの暫くの間
月魄(げっぱく) 月、月の精
珍らか(めずらか)
reprehensible 非難に値する
quaint 風変りな
priggish 堅苦しくてうぬぼれた

 

リンゼイ・アンダーソン『If もしも....(If....)』1968

リンゼイ・アンダーソン(Lindsay Anderson)監督作。1969年のカンヌでパルム・ドール時計じかけのオレンジでアレックスを演ずるマルコム・マクダウェルのデビュー作、本作でも似たような役だ。パブリックスクールの伝統に抑圧された少年達の反抗を描く。

英国のフィルムマガジンでやたらと高評価を得ているから観たのであるが、60年代後半にありがちな反体制映画の1つに過ぎない印象。ドラマ映画が主流の英国では珍しかったのかもしれない。やかましいから苦手だ、こういう映画は。芸術とは無縁であるし、現代を生きる我々が観ても得るものがない。

アイヴォリー『モーリス(Maurice)』1987

ジェームズ・アイヴォリー監督作。ヴェネツィアで銀獅子。ソドミー法が健在であった頃の英国、ケンブリッジで出会った2人の青年は、禁じられた恋をする。

アイヴォリーを賞賛すればよいのか、フォースターを讃えればよいのか判らぬが、階級、宗教、性に根差した、異なる価値観を持つ者同士の接触と拒絶、或いは調和を、見事に描き出した作品であると思う。

何が善で何が悪なのか、その判断を観客に煽ぐ映画は面白い。

アイヴォリー『ハワーズ・エンド(Howards End)』1992

眺めのいい部屋』、『モーリス』に続き、フォースターの小説を原作とする、ジェームズ・アイヴォリー(James Ivory)監督映画。
アイヴォリーは、実力あると判断した英国俳優を繰返し起用するのかな。
本作でマーガレットを演じたエマ・トンプソン、ヘンリーを演じたアンソニー・ホプキンスは、翌年の『日の名残り』に本作同様主役級として出演。他にも、ヘレナ・ボナム=カーターは『眺めのいい部屋』に、ジェームズ・ウィルビーは『モーリス』に、ヴァネッサ・レッドグレーヴは『上海の伯爵夫人』にそれぞれ起用されている。

美くしい別荘地ハワーズ・エンドをめぐる凄惨なドラマ。
あの人は年に何ポンド稼ぐとか、家賃は幾らとか、遺言書はどうとか、更には不倫、離婚、堕胎など。こうした題材を好んで用いるのは、英国の物語の特徴と云えるだろう。夢に逃れ得ない人間の悲哀をしみじみと感じさせるのは、かような現実主義的描写によるのかもしれない。

なおベートーヴェンの第5番がテーマとして用いられている。第3楽章である点がポイント高い。

リドリー・スコット『決闘者(The Duellists)』1977

リドリー・スコット(Ridley Scott)監督作。彼の怪奇趣味は通俗的。功績を認められ、Sir.の称号を與えられた人物に対する無学な私の評価など、傍痛いだけであるのだが、私としては映像も音楽も鑑賞に堪えない。古典的教養の裏付けを感じられず、悪趣味さばかりが目立つ。