Mon Cœur Mis à Nu / 赤裸の心

「美」といふものは「藝術」と人間の靈魂の問題である

竹宮惠子『風と木の詩』1976-84

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カラヤン率ゐるベルリーナフィルハルモニカ。今ではこの名門オケも様変りし、女性コンマスが誕生したと云ふ話も聞いた。性差なく実力ある人間がコンマスになれば良いと思ふが、女性のコンマス就任、それがさも意味ある事のやうに宣伝する浮薄さは、このオーケストラに相応しくない。愚にも付かないyankee共の行為だ。
ベルリンフィルには、ダンディとダンディゼットがいつでも澄まし顔に、とことはに十全無瑕の楽の音を紡いで呉れればと思ふ。あゝ、私は彼らの精密機械のやうなボウイングを愛してゐる。我が国の猿真似のオーケストラに、かの演奏は、感動は、不可能である。

 

 

本題に入らう。『風と木の詩』と云ふ少女漫画を読んだ。南仏の寄宿舎学校で相識つた2人の少年、セルジュとジルベールの恋。基本設定はLes amitiés particulières(1964)と云ふ仏映画に似てゐるが、この漫画の面白い所は、かの2人の少年のpersonaを、それぞれの両親の過去まで遡つて、緻密に構築してゐる点である。

 

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ジルベールは嬋娟たる天上の美少年。だがその崇高な外見と裏腹、何かを求め、あたかも娼婦の如く男達に身を任す。転入生のセルジュはジプシーとの混血。理非曲直を正し、ひたぶるに前を向かんとする性分で、皆知らずの裡に惹かれてしまふ。この水と油のやうな2人が、邂逅して、反目し、惹かれ合つてと云ふ筋。

惹かれ合つてはゐても、存在の仕方が異なる2人。学校からの逃避行を経て試みる「生活」は破綻を来す。生活苦、鴉片中毒、轢死。散々な結末で物語は了はる。2人は出逢はない方がよかつた?

 

 

この問ひに対する答へは、愛を知らぬ私には出せまい。ただ云へる事、ジルベールは夢に暮らす天使であつた。セルジュは全うな「人間」として、彼を愛さうとした。だが天使は、地上で生活する事ができなかつた。

Vivre? les serviteurs feront cela pour nous!

この世ならざる存在に恋をして対象を此土に留めんとする試みは、必ず失敗する。私は『ペレアスとメリザンド』が直ぐに思ひ浮んだが、『竹取物語』でもよい。これが古今東西の文学の定型であり、本作もそれに従つた譯だ。

 

だがこれとは別に、本作の結末が一定ジルベールの死で了はらざるを得ない理由があると思ふ。それは畢竟、彼らの恋が同性愛であつた事に由る。

以下は沙翁のソネット2番の一部抜粋。

Being asked, where all thy beauty lies,
Where all the treasure of thy lusty days,
To say within thine own deep sunken eyes
Were an all-eating shame, and thriftless praise.
If thou couldst answer, 'This fair child of mine
Shall sum my count, and make my old excuse,'
Providing his beauty by succession thine.

異性愛と同性愛との決定的な違ひは、子を為せるか否かである。2人を生き永らへさせたとて、それが何にならう。沙翁が云ふ通り、もし2人が子を為せるのならば彼等の美の継承を描けば良からうが、哀しい哉、彼等には老ひがあるのみだ。

この耽美派作品に於て、生活の経過、その必然的結果としての美の喪失は、描く必要があるか? 作者の答へは Non! であつた。さもあれば、この物語を了はらせる為のデウス・エクス・マキナとして、ジルベールは死んだのだ。

 

覚書
ジルベールの心の変化に焦点を合はせて読むと面白い
ラテン語の滅茶苦茶なのが玉に瑕。祈りの文言は正しかつたが。