一粒の麥、地におちて死なずば、唯一つにて在らん、もし死なば、多くの果を結ぶべし。己が生命を愛する者は、これを失ひ、この世にてその生命を憎む者は、之を保ちて永遠の生命に至るべし。人もし我に事へんとせば、我に從へ、わが居る處に我に事ふる者もまた居るべし。人もし我に事ふることをせば、我が父これを貴び給はん。(ヨハネ傳12:24-26)
生活に冒された私の魂に霊感を取り戻さんと、音楽をかけて、ドンボスコ社上梓の本書を読む。久方ぶりの神秘的な夜を過ごす。
本書は、「アルジェ・ティビリヌの修道士殺害事件」を、7名の殉教者が遺した手記と、周囲の証言から解き明かすもの。これを題材とした映画を以前紹介した。
乱雑なまとめ方、しかも拙い飜譯で読み難いなと思いながら頁を捲っていたのだが、殉教者たちの遺した手記を読み進め、「何故彼らは死を覚悟して修道院に留まったのか」という本質へと迫る場面に至っては、私の雑念は消え去った。
私は此頃、職者たちの殉教を描く芸術作品を多く鑑賞した。映画『ミッション(The Mission)』1986、オペラ『カルメル会修道女の対話(Dialogues des carmélites)』1957、絵画だと『聖アガタの殉教』1785-86など。その度に考えていた、「なぜ彼らは殉教するのか」と。
「神の御旨だから」と言われたらそれ迄だから敢えて「個人の意志」という観点で述べるが、「困難から逃亡し熱りが冷めてから再起する」という選擇はできぬものかと、私は疑問を抱いていた。
だが本書を読んで僅かに蒙は啓けた。殉教とは愛の行為なのだ。
神は愛。だがそれを悟らずに罪を冒す者は後を絶たず、現世は暴力に支配されている。この現実を目前にした時、カトリックはどうすべきか。カトリックとして生きるとは、イエズスとの一致を目指すこと。イエズスは、その尊い御身を罪人のため献ずる事で、神の愛を証明し給うた。ならば我々も、御国を迅く来たらしめる為、自らを平和の身の代として献ずる事が必要ではないか。これによりイエズスとの一致が叶うのではないか。
『キリストのように考え』という聖歌。よく歌われるものだが、平生の私はなんと軽薄にこの聖句を口遊んでいたことか。私はまだ何も分かっていない。
今宵の音楽覚書
・三善晃: 抒情小曲集
・ニールセン:交響曲第4番「不滅」
・ワーグナー:交響曲
・ブルックナー:交響曲第7番
・フォーレ:ピアノ四重奏曲第2番