Mon Cœur Mis à Nu / 赤裸の心

「美」といふものは「藝術」と人間の靈魂の問題である

エルネスト・ルナン『イエスの生涯(Vie de Jésus)』1863 

 

基督が、祈禱と信仰とは物質的にすら全能だと信じ給うたことを、ルナンは莫迦げてゐると考へてゐる。(ボオドレエル『赤裸の心』)

 

エルネスト・ルナン(1823-92)は19世紀フランスの思想家。ブルターニュの敬虔な家庭に生れ、サン・シュルピス神学院に学ぶが、懐疑主義に陥り退校。実証科学を奉じて、イポリット・テーヌと並ぶ写実主義時代の理論家として名を馳せた。本書は、かの実証主義者による、超自然を排したイエズス伝。

 

イエズス伝というと、例えばモーリヤック(1936)や遠藤周作(1973)によるものを、私は過去に読んだ。彼等「作家」が書く伝記は物語的で、あたかも5番目の記者による福音書であった。

一方、ルナンによる本書はそれらと異なる。これは、イエズスをその生きた時代と地理的な条件の中に置き、その環境下でイエズスがどう思想形成を為したかという「分析」の書である。本文中には、著者が自身の目で見たガリラヤやユダヤの土地の描写が散見されるが、その記述は如何にも写実主義者らしい正確さで為されている。

 

私はイエズス伝を読む時、著者が「主の復活」をどう扱うか、意地の悪い感心を抱く。というのは、凡そ著者がカトリックであるとき、信仰の核心たるResurrectionに特別気を遣う事は明白であるからだ(ここで下手すると教会に行けなくなる)。著者が科学の立場を取っている場合は尚更である。

上掲の二書をみてみると、モーリヤックは主の復活に「解釈」を施す事をせず、福音の記述ままに受容している。遠藤周作は「一度は主を見放した弟子たちの信仰に於いて『復活』した」という解釈を採用しているが、同時に「イエズスの生涯には我々の人生を投影してなお摑み難い神秘と謎がある」と保険を掛けている。遠藤はこの論法を繁く用いるが、ここが遠藤の下等な所だ。

では本書は? 先に書いたが、ルナンは超自然の一切を後世の捏造として斥けている。例えばイエズスのベツレヘム降誕はナンセンスと論じているし、「ラザロよ、出で来れ」も無かった事にしている。そして「復活」については、潔い事に、一行の記述すらない。

ルナンに云わせれば、こうした神秘的な奇蹟は後世の肉付で、画蛇添足、イエズスの偉業を矮小化するものでしかない。イエズスが排する事を望んだユダヤ式の教理や儀式を己がものとして身に纏うカトリック教会は滑稽だ。イエズスは一人間である。にも関わらず彼の理想主義の崇高さは比肩に絶し、それ自体が神性を帯びているのだから、神秘主義は不要なのだ、と。

 

殿堂や境内にいて敬虔な気持ちになるのは、ユダヤ化したキリスト教徒だけだ。

 

彼の態度は、「原罪」を忘却し、「科学」の前に膝を屈した、現代カトリシスムそのものだ。

 

 

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