Mon Cœur Mis à Nu / 赤裸の心

「美」といふものは「藝術」と人間の靈魂の問題である

ドゥミ『シェルブールの雨傘(Les Parapluies de Cherbourg)』1964

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ジャック・ドゥミ(Jacques demy)監督のミュージカル映画。音楽を担当したのはミシェル・ルグラン(Michel Legrand)。ヌーヴェルバーグが生んだ名コンビ。カンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞。

全編音楽の完全なミュージカルでまるでオペラのよう。ストーリー自体は身勝手な女のメロドラマだが、よくまとまった構成で退屈はしない。エンディングに向けての音楽の高まりと、映像の美しさが素晴らしい。

本作でカトリーヌ・ドヌーヴ(Catherine Deneuve)は出世した。ドゥミは1967年の『ロシュフォールの恋人たち(Les Demoiselles de Rochefort)』をはじめ、繰り返しドヌーヴを起用している。ドヌーヴ出演作で気になるのが幾つか。『悪徳の栄え(Vice and Virtue)』『昼顔(Belle de jour)』など。

ブレスト『セント・オブ・ウーマン(Scent of a woman)』1992

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”odor di femina”か、小洒落た題名だと思う。マーティン・ブレスト監督。「ザ・アメリカ映画」という感じ。芸術点は低いが、フィーリング・グッドな作品。有名なタンゴシーンで流れるのは"Por una Cabeza"という曲。『シンドラーのリスト(1993)』のオープニングシーンでも使用されていた。

アル・パチーノ演じる中佐がみせた演説のシーンは『スミス都に行く(1939)』を大いに意識したものだろう。人々が忘れている「大切な価値」を訴えて、皆の心を動かす。僕くらいやさぐれてしまうと、うっとおしいとしか思わなくなってしまうが。

三島由紀夫『サド侯爵夫人』

第三幕の渾沌の前に読者の「道徳」が問われる。
諸価値をそれぞれ代表する女6人が想描くサド侯爵"像"。どれも真実ではないのだ。

  

三島は本作品と『わが友ヒットラー』をお気に入りの戯曲に数えていた。

 

剣呑 危険を感じている様子
杜氏 酒の醸造工程を担う職人
典雅 整っていて上品なさま

行定勲『春の雪』2005

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「私がもし急にいなくなってしまったとしたら、清様、どうなさる?


行定勲監督。原作は勿論三島由紀夫。健闘したといって差し支えない仕上がりだと思う。

次作『奔馬』へと繋がらぬことを前提としているからであろうか。飯沼は出て来ない。しかしそうであるなら輪廻の話は下手に出さねばよかった。酷く浅い理解で終わっている。鎌倉でシャムの王子が仏像に手を合わせる描写は全くの無駄だ。

清明と聡子がキスするまでが早すぎる。原作にはもっと聡子から清明への揺さぶりがあった筈だ。そう、強かであると同時に弱い「女」としての聡子をもっと描かなければ。そこが面白いのに、決定的に足りていない。三島が紡いだ高度な心理描写が蔑ろにされているので、ただのメロドラマと化している感が否めない。

最悪なのは新橋ステーションの場面だ。改悪以外の何でもない。「馬鹿がよ」と思わず声がでてしまった、台無しにされた、あぁ最悪だ。

 

「又、会うぜ、きっと会う。滝の下で」
飯沼出て来ないのに会う訳ないだろう、いい加減なこと言うな。

 

 

三島由紀夫『夜会服』1967

嫁姑物語。貴族趣味的な小説。1966年から1967年にかけて女性雑誌『マドモアゼル』上に連載。1966年といえば、三島は既に『豊饒の海』の執筆に取り掛かっている頃だ。そんな時期にこれほどに軽快な娯楽小説を書く三島は、職業作家だったのだと思う。

ウェーバー『ピアノソナタ第4番ホ短調』

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カール・マリア・フォン・ウェーバー(Carl Maria Friedrich Ernst von Weber)は『魔弾の射手』しか知らない私に、フランス語の先生がおすすめしてくれた。貸してもらったのはディノ・チアーニ(Dino Ciani)の録音。
ウェーバーが最後に遺した4楽章からなるピアノソナタ。感情のモチーフがふんだんに使われる本作は、ロマン派の時代の訪れを教えてくれる。

アントン・ウェーベルン『弦楽四重奏のための緩徐楽章』1905

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シェーンベルクと同列に語られ、「前衛」のイメージが強いアントン・フォン・ウェーベルン(Anton von Webern)。しかしながらこの『緩徐楽章』は、彼が十二音技法を用ゐる前の作品であり、ブラームスを思はせる森厳甘美なメロディーが特徴。これ程に重厚な曲が書けて、且つ秩序・調和に至高価値を置くカトリックであつたウェーベルンが、何故あのやうな音楽を志したのか判らない。

 

20201007日記

 物事を分類して話すということ。
 目的・手段・結果の分類。短期・中期・長期的観点の分類。

 

 

三島由紀夫の思想と行動」『文芸春秋』1990年12月 pp.306-321
 評論家吉本隆明西部邁の対談。大した事は話していない。
・右翼的思想と左翼的思想。前者は行動、後者は言葉云々。
・三島の終戦=「絶対の青空」。何もない果てしなく透明な青空、この青空のもとに何もかもが言葉を失って包摂されて貫かれている感じが作品に反映。
・自分で作った仮面が外せなくなった。その果てに、「盾の会」という政治の場に身を置いた。結局政治の中におけるなりゆきの死。政治の中での言葉というのは、取り消し不能の形でやってくる。

 

松本徹「文化防衛論と暁の寺」『三島由紀夫の思想』鼎書房 2018
三島の政治への接近過程に詳しい。再読すべし。

 

遠藤浩一「戦後政治と三島由紀夫」『三島由紀夫研究8』
政治を扱っている意味がない。また根拠に乏しい。

石橋湛山について

石橋湛山について
戦前はジャーナリスト。戦後政治家に転身。国民からは鳩山や岸と並んで「反吉田派」と受け止められた。首相を務める。

 

石橋の「対米自主論」について
米国に依存することを盲目的に受容れる日本人に対しての批判的視座。個人主義自由主義を根底に置いていたといえる。米国への政治的・経済的依存が、国民生活の向上に真に資するものであるかを、日本人は問わねばならないと認識。
→独立を性急に志向するナショナリズムとは異なる。

 

石橋の「独立」の認識について
「真の独立」=経済的独立(経済発展、工業化)が先んじ、政治的独立が続く→形式面よりも実質面を重んずる政策志向。中国への接近は、中国市場のポテンシャルを認識しており、貿易を発展させる目的であった。また米国を差し置いて、中国へ近寄るということは考えていなかった。

 

出原政雄『戦後日本思想と知識人の役割』法律文化社 2015参考

20201004日記

三島の定義に従うなら、僕は純然たる「文人」になりたい。すなわち「花と散る」人種ではなく、「不朽の花」を育てる人種だ。
僕は昔から桜が嫌いだった。いつ散ってしまうか分からぬ儚さに心を乱されることが嫌いだった。僕が求めるのは永遠、ギリシアやローマの建築にみられる不変の美だった。