Mon Cœur Mis à Nu / 赤裸の心

「美」といふものは「藝術」と人間の靈魂の問題である

パスカル『パンセ(Pensées)』1670

『パンセ』はパスカルが出版を企図してゐた護教論の覚書や下書を中心とする遺稿集。『パンセ』の翻譯は多数あるが、一番まともな日本語になつてゐるのが、この中公文庫版。翻譯の底本はブランシュヴィック版。遺稿が内容別に整理されてゐる為、読者に易しい。

『パンセ』は紛ふことなきカトリシスムの書。護教論、キリスト教弁証論である。我が国に於て、至る所で引用される『パンセ』であるのに、日本人はカトリシスムを受容れない。彼らが本書の上つ面を読んで、「クレオパトラの鼻」だの「考へる葦」だのと喋々してゐる事実は、期せずしてパスカルが主張する「人間の惨めさ」を証明してゐる。「クレオパトラの鼻」は、うつしよに於ける人間の定めさなさを説明するものであり、「考へる葦」は、霊魂の不死について考へぬ多くの人間の愚昧を刺す警句であるのだが、斯うした背景を知つてゐれば、これらを都合よく引用する事はできぬ筈である。

 

扨て、重要な断章を引用する前に『パンセ』の概要を述べて置く。

パスカルはその明晰な科学者の態度を以て人間性を探究した。その結果、人間の済度し難い「惨めさ」を見た。

次にパスカルは「惨めさ」の理由を思索した。そして、それに説明を与ふるのはカトリシスムの「原罪」の秘義である事を、即ち本来の人間性の「偉大さ」に結論される事を発見した。人間は、すべての人類の祖アダムが、嘗てエデンに於て有してゐた「真理」の観念を持つが故に、偉大であり且つ悲惨であるのだ。

よつて我々の真の幸福は、イエズス・キリストの恩寵に与り原罪の滅却を図る事、即ち真理の探究に由らぬ限り成立し得ない。

すべて読書子には、本書の通読によつて、人を罪の意識から逸らす現代のカトリシスムが如何に薄弱なものとなつてゐるかを確かめられたい。

 

 

九 人を有益にたしなめ、その人にまちがっていることを示してやるには、彼がその物事をどの方面から眺めているかに注意しなければならない。なぜなら、それは通常、その方面からは真なのであるから。そしてそれが真であることを彼に認めてやり、そのかわり、それがそこからは誤っている他の方面を見せてやるのだ。

 

三七 人は普遍的であるとともに、すべてのことについて知りうるすべてを知ることができない以上は、すべてのことについて少し知らなければならない。なぜなら、すべてのことについて何かを知るのは、一つのものについてすべてを知るよりずっと美しいからである。このような普遍性こそ、最も美しい。

 

七二 われわれは、霊魂と身体という、相反し、種類の異なる二つの本性から組成されている。もしわれわれが単に身体的であると主張するならば、それはわれわれを事物の認識からいっそう遠ざけることになるであろう。なぜなら、物質がそれ自身を知るということほど不可解なことはないからである。

 

七三 理性は、まだ何も確実なものは見いだしえなかったということを告白する程度だけには理性的である。

 

八八 すべて進歩によって改善されるものは、同じく進歩によって滅びる。すべてひとたび弱かったものは、決して絶対に強くはなりえない。

 

九四の二 人間は、本来、<全くの動物>である

 

一二二 時は、苦しみや争いを癒す。なぜなら人は変わるからである。もはや同じ人間ではない。

 

一四八 われわれは、全地から、そしてわれわれがいなくなってから後に来るであろう人たちからさえ知られたいと願うほど思い上がった者であり、またわれわれをとりまく五、六人からの尊敬で喜ばせられ、満足させられるほどむなしいものである。

 

一六二 人間のむなしさを十分知ろうと思うなら、恋愛の原因と結果とをよく眺めてみるだけでいい。原因は、「私にはわからない何か」であり、その結果は恐るべきものである。この「私にはわからない何か」、人が認めることができないほどわずかなものが、全地を、王侯たちを、もろもろの軍隊を、全世界を揺り動かすのだ。クレオパトラの鼻。それがもっと低かったなら、地球の表情はすっかり変わっていただろう。

 

一七一 惨めさ。われわれの惨めなことを慰めてくれる唯一つのものは、気を紛らすことである。しかしこれこそ、われわれの惨めさの最大のものである。なぜなら、われわれが自分自身について考えるのを妨げ、知らず知らずのうちに、われわれを死に至らせるものだからである。

 

一七二 ただ未来だけがわれわれの目的である。このようにしてわれわれは、決して現在生きているのではなく、将来生きることを希望しているのである。そしてわれわれは幸福になる準備ばかりいつまでもしているので、現に幸福になることなどできなくなるのも、いたしかたがないわけである。

 

一八九 不信者に同情することから始める。彼らはその境遇によってすでに十分不幸なのだ。

 

一九四 霊魂の不死ということは、われわれにとって実に重要であり、実に深刻な関係を持つことがらであり、あらゆる感情をなくしてしまわないかぎり、そのことがどうなっているかについて無関心ではいられないはずである。(...)彼ら自身に、彼らの永遠に、彼らのすべてにかかわる問題に対するこの怠慢は、私に同情心を起こさせるよりは、むしろ私をいらいらさせる。私を呆れさせ、恐れさせる。それは私にとっては、一個の怪物である。この疑いのなかにいる場合に、すくなくとも必ず果たさなければならない義務は、求めるということである。

疑いながらも、求めないという人は、全く不幸であると同時に全く不正である。どうすることもできない悲惨を待つよりほかはないということが、どんな喜びの種になるのだろう。(...)実際、こんなに無分別な連中を敵に持つということは、宗教にとって光栄である。彼らの反対は、宗教にとって少しも危険はなく、かえって反対に、その真理の確立に役立つのである。なぜなら、キリスト教の信仰は、次の二つの事柄を確立することにほとんど尽きるからである。すなわち、人間の本性の腐敗とイエス・キリストのあがないの二つである。彼らはひねくれた気持によつて、本性の腐敗を示すにはりっぱに役立っているということを、私は主張する。

神なき人間の不幸がどんなものであるかを知らないことほど、人間の精神の極端な弱さをあらわすものはない。永遠の約束が真実であることを望まないことほど、心構えがまちがっていることを示すものはない。神に対して強がりをするほど卑怯なことはない。

彼らを軽蔑しないためには、彼らが軽蔑している宗教のうちに、まさにいなければならない。

 

二三一 君にとって依然は不可能と思われていた、この自然の事実が、君の知らない事実がほかにもありうるということを、君に知らせるといい。君が今までに習ったことから、君にはもう知るべきことが何も残っていないのだなどという結論を、引き出してはいけない。自分には知るべきことが無限に残っているという結論を、引き出さなければいけないのだ。

 

二三三 選ばなければならないのだから、ためらわずに、神があると賭けたまえ。無に等しいものを失うのと同じような可能性でもって、起こりうる無限の利益のために、あえて生命を賭けないで出し惜しみをするなど、理性を捨てないかぎり、とてもできないことである。

 

二四一 順序。私には、キリスト教をほんとうだと信じることによってまちがうよりも、まちがった上で、キリスト教がほんとうであることを発見するほうが、ずっと恐ろしいだろう。

 

二六七 理性の最後の歩みは、理性を超えるものが無限にあるということを認めることにある。それを知るところまで行かなければ、理性は弱いものでしかない。

 

二七六 気にさわるからこそ、その理由がみつかる。

 

二九八 力のない正義は無力であり、正義のない力は圧制的である。

 

三四七 人間はひとくきの葦にすぎない。われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。

 

三六五 考え。人間の尊厳のすべては、考えのなかにある。だが、この考えとはいったい何だろう。それはなんと愚かなものだろう。考えとは、その本性からいって、なんと偉大で、その欠点からいって、なんと卑しいものでだろう。

 

三八五 懐疑論。この世では、一つ一つのものが、部分的に真であり、部分的に偽である。われわれは、真も善も部分的に、そして悪と偽と混じったものとしてしか持っていないのである。

 

三八六 人生は、定めなさがいくらか少ない夢である。

 

三九一 懐疑論は宗教に役立つ。

 

三九五 本能、理性。われわれには、どんな独断論もそれを打ち破ることのできない、証明についての無力がある。われわれには、どんな懐疑論もそれを打ち破ることのできない、真理の観念がある。

 

三九七 人間の偉大さは、人間が自分の惨めなことを知っている点で偉大である。樹木は自分の惨めなことを知らない。

 

三九八 すべての惨めさそのものが、人間の偉大さを証明する。それは大貴族の惨めさであり、位を奪われた王の惨めさである。

 

四〇九 人間の偉大さは、その惨めさからさえ引き出されるほどに明白である。なぜならわれわれは、獣においては自然なことを、人間においては惨めさと呼ぶからである。人間の本性が今日では獣のそれに似ている以上、人間は、かつては彼らにとって固有なものであったもっと善い本性から、堕ちたのであるということを認めるのである。なぜなら、位を奪われた王でないかぎり、だれがいったい王でないことを不幸だと思うだろう。

 

四一六 偉大さと惨めさ。惨めさは偉大さから結論され、偉大さは惨めさから結論される。人間のこの二重性。

 

四三〇 「今あなたがたは、私があなたがたを形づくったときの状態にはいないのである。私は人間を清く、罪なく、完全に創造した。彼を光と知性とで満たした。彼は苦しめる死と惨めさとのなかにいなかった。だが彼はこれほどまでの栄光を、思い上がりに陥らないでは保つことができなかった」

 

四三三 ある宗教がほんとうであるためには、それがわれわれの本性を知っていなければならない。それは、偉大さと卑小さとを、そして双方の理由を、知っていなければならない。キリスト教以外に、どの宗教がそれを知っていただろうか。

 

四三四 人間は、いったいどうしたらいいのだろう。すべてを疑おうか。人は、こんなところまで来るわけにはいかない。それならば、その反対に、人間は確実に真理を所有していると言うのだろうか。ただわずかばかり突かれただけで、何の資格も示すことができず、つかんでいるものを手放してしまわなければならないこの人間が。

では人間とはいったい何という怪物だろう。何という新奇なもの、何という妖怪、何という渾沌、何という矛盾の主体、何という驚異であろう。あらゆるものの審判者であり、愚かなみみず。真理の保管者であり、不確実と誤謬との掃きだめ。宇宙の栄光であり、屑。だれがこのもつれを解いてくれるのだろう。

君の知らない君の真の状態を、君の主から学べ。神に聞け。なぜなら、結局、もし人間がいまだかつて腐敗したことがなかったならば、その罪のない状態において、真理と至福とを、安心して楽しむことができたであろう。また、もし人間が、初めからただ腐敗しているばかりだったならば、真理についても、至福についても、何の観念も持たなかったであろう。だが不幸なことには、そしてそれはわれわれの状態のなかに何の偉大もなかったとする場合よりももっと不幸なことであるが、われわれは幸福の観念を持っていながら、そこに到達することができないのである。われわれがかつて完成へのある段階にいたにもかかわらず、不幸にしてそこから堕ちてしまったということは、こんなにも明白なのである。

しかし、驚くべきことは、われわれの理解から最も遠いところにあるあの秘義、すなわち原罪遺伝の秘義は、それがなければわれわれ自身について何の理解も得られなくなるということである。

人間は創造の状態、あるいはまた恩恵の状態においては、自然全体の上に引き上げられ、神に似たようなものにされ、その神性にあずかるものとされる。腐敗と罪との状態では、人間はさきの状態から堕ちて、獣と似たものとされる。これら二つの命題は、等しく堅固で確実である。

 

四三五 キリスト教は、その義とする人たちをおののかせ、その罪する人たちを慰めつつ、すべての人に共通である恩恵と罪との二つの可能性によって、恐れと希望とをあのように多大な正しさで調整していくので、単なる理性がなしうるよりも無限に高く人々をへりくだらせるが、しかも絶望させず、また本性の高慢がなしうるよりも無限に高く人々を引き上げるが、しかも高ぶらせないのである。

 

四五〇 もし人が、尊大と野心と邪欲と弱さと悲惨と不正とに自分が満ちていることを知らなかったら、彼はよほどの盲人である。またもし知っていながら、それから救われることを願わないならば、そんな人についてなんと言うべきであろうか。そうだとしたら、人は人間の欠点をかくもよく知っている宗教を尊敬するほかに、またそれに対してかくも望ましい救治法を約束する宗教の真理を求めるほかに、何をなしえるであろうか。

 

四八三 <神につけば、一つの靈になる>人はイエス・キリストの肢体であるから、自分を愛する。人はイエス・キリストが全体であり、自分がその肢体であるから、イエス・キリストを愛する。三位一体のように、全体は一つであり、一つは全体のうちにある。

 

四八五 真の唯一の徳は、その邪欲ゆえに自分を憎むことと、真に愛すべき存在を愛するために、それを求めることとである。しかしわれわれは自分の外にあるものを愛することはできないので、われわれのうちにあって、しかもわれわれでない存在を愛さなければならない。神の国はわれわれのうちにある。

 

五二六 悲惨は絶望を是認させる。高慢はうぬぼれを是認させる。神の子が人となられたことは、人間が必要とした救いの偉大さによって、人間の悲惨の偉大さを人に示すものである。

 

五三四 二種の人々があるだけである。一は、自分を罪人だと思っている義人。他は、自分を義人だと思っている罪人。

 

五三八 キリスト者は、自分が神に結ばれていると信じていながら、いかに高慢でないことか。自分を虫けらに比べていながら、いかに卑屈でないことか。生と死と、幸と不幸とを受けるなんという麗しい態度。

 

五四七 人は神を絶対的に証明することも、正しい教理と正しい道徳とを教えることもできない。けれども、イエス・キリストにより、イエス・キリストにおいて、人は神を証明し、道徳と教理とを教える。ゆえに、イエス・キリストは人間の真の神である。しかし、われわれは、それと同時に、われわれの悲惨を知る。なぜなら、この神はわれわれの悲惨の救済者にほかならないからである。そこで、われわれは自分の罪を知ることによってのみ、神を明らかに知ることができる。したがって、自分の悲惨を知らずに神を知った人々は、神を崇めたのではなく、自分を崇めたのである。

 

五五三 イエスの秘義。最後の苦悶、それは人間の手から生じる苦痛ではない。全能の御手からくる苦痛である。それに堪えるには全能でなければならないから。イエスは世の終わりまで苦悶されるであろう。そのあいだ、われわれは眠ってはならない。

 

五五六 キリスト教は本来、贖い主の秘義のうちに成り立ち、この贖い主は自分のうちの二つの性質、すなわち人間性と神性とを結びつけ、その神性によって人間を神と和らがしめるために、彼らを罪の堕落から救い出されるのである。ゆえに、キリスト教は、次の二つの真理を同時に人間に教える。一人の神が存在し、人間はその神を知ることができる。また人間の本性には腐敗があり、それが人間に神を知らせないようにしている。これらの点を二つとも知ることは、人間にとって等しく重要である。

 

六一四 この宗教はいつもみずからを保持し、しかも変節しなかった。これはその神聖を示すものだ。

 

六四〇 ユダヤ民族がすでに長い年月のあいだ、しかも常に悲惨な状態で存続しているということ、イエス・キリストの証拠として必要なので、彼らはイエス・キリストを証明するために存続するとともに、彼を十字架にかけたために悲惨であるということ、そして悲惨であることと存続することとは相反しているのに、彼らはその悲惨にもかかわらず、常に存続しているということ。

 

七六一 ユダヤ人は、彼のメシアであることを認めまいとして、彼を殺したことにより、彼にメシアの決定的な証拠を与えた。

 

七六五 相反のみなもと。十字架で死ぬまでへりくだった神。自分の死によって、死にうち勝ったメシア。イエス・キリストにおける二つの本性、二つの来臨、人間の本性の二つの状態。

 

八〇二 使徒たちは、欺かれたか、欺いたか、どちらかであるというのは、支持しがたい。なぜなら、ある人が復活したなどと思うことは、不可能なことであるから。イエス・キリスト使徒たちとともにおられたあいだは、彼らをささえることができた。だが、その後、もし彼が彼らに現われなかったとしたら、だれが彼らを動かしたであろうか。