Mon Cœur Mis à Nu / 赤裸の心

「美」といふものは「藝術」と人間の靈魂の問題である

リラダン『王妃イザボー(La Reine Ysabeau)』1880

この齢になつて甲斐もなく仏語学校に通つてゐる。齢二十五で斯う云ふと失笑を買はれるだらうが、若さの可能性を知るのは年を取つてからだし、抑々臆病な自尊心で身動きの取れぬ青年など、老人と大して変はる所がない。

 

話が逸れた。今日とて仏語の勉強のため図書館を訪れた。エレベーターを待つ間、ふと掲示されてゐるパンフレットを見た。表紙に『イザボー』とある。イザボー、どこかで聴いた名だと思ひ暫く記憶を辿つてゐると、果たしてヴィリエ・ド・リラダンに、彼女を題材とした短篇があつた。

 

イザボー・ド・バヴィエールはシャルル六世王(1368-1422)の妃。シャルル七世王(1403-61)の母。彼女の美貌は史家のなべて認むる所で、数多の貴族と情交を結んでゐたと云ふ。シャルル六世王がマンスの森にて発狂した後、ブルギニョンとアルマニャックの敵対によつて亂れる国家の摂政を務めたが、彼女の能力は「恋愛」以外に於て無益だつたので、フランス領土の大半がイギリスの手に落ちた(この惨たるフランスにサンジャンヌ・ダルクは現はれた。彼女はイザボーとは対照的な女性であつた)。

 

ヴィリエは僅か十数頁の裡に亡国の美姫イザボーの残忍な愛慾を描破してみせた。だがこれは、イザボーと云ふ強烈な「個性」を描く為の物語ではない。著者は冒頭に斯く云ふ。

 

予がこのやうな遠い昔に溯るのは唯、現代人士に不快の念を與へざらんがためにすぎぬ。

 

読者がイザボーに見た恋愛にひそむ残忍性。だが畢竟、恋愛に於る残忍性とは「普遍」であつて、誰しもその性質を発揮する余地がある。この事はボオドレエルも指摘してゐる。

 

恋愛は拷問または外科手術に酷似してゐるといふこと。夢中になり方が比較的少ない男或いは女が、執刀者であり拷問者である。そして他の一人が患者であり犠牲者である。あのため息、あの呻き、あの叫び、あの喘ぎがきこえるか。これらの声を口にしなかつた者があらうか (ボオドレエル『火箭』3)