Mon Cœur Mis à Nu / 赤裸の心

「美」といふものは「藝術」と人間の靈魂の問題である

ロンゴス『ダフニスとクロエー』A.D. 200-300

 

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ヴィリエ・ド・リラダンに、『ヴィルジニーとポール』と云ふ小品がある。サン・ピエールの『ポールとヴィルジニー』をさかしまにした名で、近代功利の腐敗が少年少女のあどけない牧歌にさへ浸透してゐる事を諷刺した作品。小品を充たす月明りに似た甘美な抒情は、上記救ひやうの無い主題と対照を為し、これが諷刺の度合いを彌増してゐる。

 

扨て、ヴィリエの諷刺は一旦置かう。『ポールとヴィルジニー』はじめ、少年少女の無垢なる恋と云ふ主題を持つ諸々の芸術作品に対し、インスピレーションを与へ続けてゐるギリシア古典がある。『ダフニスとクロエー』だ。

エーゲ海を望むレスボス島。幼い二人の恋の芽生えと成熟、そして成就する迄の過程。これが自然の営みと平行するやうにして細やかに描かれる。その情景は、国立西洋美術館にあるミレーの『春』を想像すると分り易い。人は本書を読み乍ら、自身の初恋の記憶(恐らく多くの人にとつて最も恍惚たる思ひ出)が蘇へるのを覚るだらう。

 

とは云へ『ダフニスとクロエー』は決して理想的な美を描ゐた作品ではない。物質崇拝の猥褻本と評価しても、強ち間違ひではない。ダフニスとクロエーの恋を成就せしめた秘鑰は、畢竟二人の「家柄」と「金」ではないか。

ヴィリエは見誤つた。人類の唯物的腐敗は近代功利主義の為せる技ではない。失はれし過去の栄光など、はじめから存在しない。悲しい哉、腐敗は人間の本質。世世とこしへに万軍の主なる「金」にホザンナ。