Mon Cœur Mis à Nu / 赤裸の心

「美」といふものは「藝術」と人間の靈魂の問題である

ティボーデ『フランス文学史(Histoire de la littérature française - de 1789 à nos jours)』1936_ボードレール論

「『惡の華』の歴史。誤解によつて受けた屈辱、訴訟」(ボオドレエル『赤裸の心』)

 

「私の蒙つた屈辱は神の恩寵であつた」(ボオドレエル『火箭』)

 

「罪の増すところには恩惠も彌増せり」聖パウロ

 

アルベール・ティボーデは史学と哲学を修めた後に、文芸批評の道に入つた。この『フランス文学史』は1936年に上梓され、1789年から凡そ1930年代迄をその解説の範囲としてゐる。

日本に於る受容について、本書は1952-54年に懸けて翻譯された。名にし負ふ仏文学者、辰野隆氏、鈴木信太郎氏が監修を務め、岩波の『フランス文学案内』を書いた渡辺一夫鈴木力衛両氏も翻譯に参加してゐる。さうした譯で、我が国に頒布さるフランス文学史観と本書見解とは、一致する所が頗る大きい。

私は何故この本を取り上げるか。それはティボーデのボオドレエル論の犀利に、敬意を表する為である。

 

ティボーデは、斯の「永遠」を観じた芸術家、カトリック詩人としてのボオドレエルを、初めて明らかにした一人であつた。

もとよりボオドレエルは端倪すべからざる韜晦の人であつて、周囲の誤解を受くる事が常であつた。否、ダンディの性から、詩人自ら喜々としてそれを受容していた観がある。民意は『惡の華』を、斯の崢嶸たるカトリックの大伽藍を「賤劣ニシテ節操ヲ穢ス写実主義」と断ずる恐るべき誤謬を犯したし、ユイスマンス、ゴーチエと云つた御仁でさへも、ボオドレエルの信仰に対しては否定的だつたといふ。

 

しかしティボーデは、ボオドレエルを単なる頽廃と悪徳の詩人と看做す卑陋たる俗見に「否」を唱へる。

 

ボオドレエルは、意識の冥府の中に、カトリック教の精神を探究した

 

惡の華』(もとは『冥府(Limbes)』といふ表題だつた)に潜むカトリシスムとは。

天国と地獄、相反する二つの世界の中間にあるてふ「冥府」*1。その中間的、特殊、独自な存在は、旧約と新約、律法と愛、神と悪魔、善と悪、と云つた二元性の間をたゆたふ人類さながら。『惡の華』に詠まれてゐるのは、善を望めど原罪あるが故、肉の念<おもひ>に支配されざるを得ぬ人類の魂の慟哭であつて、それは即ち、冥府を旅する人間の普遍的な姿である。

自己の裡なる対立、矛盾、二重性の苦しみ、即ち近代キリスト教の失つた原罪の秘義を謳ふボオドレエルは、紛れもないカトリック詩人であつた。

 

最後に、ティボーデは斯く断じてゐる。

 

一切の形の罪障が結局そこへたちかへる、かの原罪の概念を、十六世紀の基督教徒と同じ程度に確実に身につけてゐた者は、十九世紀の詩人中獨りボオドレエルあるのみ(Albert Thibaudet, Intérieurs : Baudelaire, Fromentin, Amiel, 1924)

 

 

賢しら(さかしら) 悧巧ぶること
朱夏(しゅか) 盛夏、転じて壮年時代
穹窿(きゅうりゅう) 弓形にみえる天空
蒙塵(もうじん) 天子が難を避けて都を去ること
渉猟(しょうりょう) あちらこちらを歩くこと、転じて多くの書物を読漁ること
天稟(てんぴん) うまれつきの才能
満腔(まんこう) 全身、心からの
憤懣(ふんまん) 憤り悶えること
左袒(さたん) 味方すること
俚諺(りげん) 民衆の間から生まれた諺
俚しい(いやしい) 田舎じみた
社稷(しゃしょく) 朝廷、国家のこと
悲憤慷慨(ひふんこうがい) 不義・不正に憤り嘆くこと
諂佞阿諛(てんねいあゆ) 相手に気に入られるよう振舞うこと
面折廷諍(めんせつていそう) 君主の前で怖気づくことなく諫言すること
陥穽(かんせい) 人を陥れる策略
蒼生(そうせい) 人民
貪婪(たんらん、どんらん) 慾の深いこと
皮癬(ひぜん) 赤い発疹。疥癬に同じ
猖獗(しょうけつ) 悪い物事が蔓延り勢いを増すこと
譬喩(ひゆ) 比喩に同じ
使嗾(しそう) 唆すこと
階梯(かいてい) 階段
魁偉(かいい) 体格などが大きく、たくましいさま
おほけなく 身分不相応に、恐れ多くも
馬耳東風(ばじとうふう) 人の批評を聞き流すこと
斗筲(とそう) 人の器量の小さいこと
鞠躬如として(きっきゅうじょ) 畏れ謹んで
喬木は風に嫉まる(きょうぼく) 優れた者は周囲の嫉妬から禍いを招くという喩え
腐儒(ふじゅ) 全く役に立たない学者
識見の卑陋(ひろう) 見識などが浅薄であること
寛闊(かんかつ) 気質・服装がゆったりとしていること
居を卜す(ぼくす) 住む
宛然(えんぜん) そっくりであること、さながら
襤褸(らんる) ぼろ
桎梏(しっこく) 自由を束縛するもの
膚浅(ふせん) 思慮の浅いこと
犀利(さいり) 才知が鋭く、物を見る目が正確であるさま
琴瑟相和す(きんしつあいわす) 調和していること、良い夫婦仲
殷殷たる(いんいん) 大きな音が鳴り響くさま
不盡(ふじん) つきないこと
妙趣(みょうしゅ) 優れた趣
鬧(ざっとう)
尾羽打ち枯らす(をはうちからす) 淪落すること
fig 無花果
degenerate 退化する
faustian 世俗的権力を追い求める事
quarantine 検疫
loathsome 忌まわしい
atonal 無調
tonality 調性
defilement 穢れ
annotate 注釈をつける
immanent 内在する







 

*1:聖書や公教要理に記載は無いが、十字架の上で息を引きとつたイエズスが降つたとされる場所、辺獄(羅limbus、仏limbes)。使徒信経にある古聖所の事。但しラテン語原典に於る古聖所は”inferos”である。