Mon Cœur Mis à Nu

「美」といふものは「藝術」と人間の靈魂の問題である

吉野源三郎『君たちはどう生きるか』1937

今、同名のジブリ映画が上映されてゐる。尤も脚本はオリジナルださうだが。

私は本書を、遠い昔に読んだ覚えがある。その筋こそ忘れてゐたものの、本質の部分は確かに私の内奥に生きてゐた。その一つ、「自らの過ちに対し言い訳をし、それを忘却するやうな事はすまい」と云ふ誓ひを、私は少年期以来守り続けてゐる。

然り、この本の最も迫真的な場面は何処かと問へば、それは第七章「石段の思ひ出」である。友人との誓ひを破り、自らの臆病、卑屈な行ひを後悔するコペル君の姿を見て、きつと誰しも、己が青春の罪科を思ひ出す事だと思ふ。

コペル君に対して、叔父はパスカルを、母は自らの経験を引用しつつ諭す。

廢黜された王にあらずして、誰か王でないことを不幸に思ふであらうか(パスカル『パンセ』)

大人になつても、ああ、なぜあのとき、心に思つたとほりにしてしまはなかつたんだらうと、残念な気持で思ひかへすことは、よくあるものなのよ。p.245

その事だけを考へれば、そりゃあ取りかへしつかないけれど、その後悔のおかげで、人間として肝心なことを、心にしみとほるやうにして知れば、その経験は無駄じゃあないんです。p.248

人間は自らの悲惨を知る故に偉大である。もし仮に人間が罪を罪とも思はない、恥を恥とも思はないならば、人間は他の動物から、敢へて識別さるべき存在ではない。

アダムの末裔たる人間は理想を知つてゐる。故に人間は理想と惨たる現実との間に横たはる深淵を嘆く。しかし斯る悲惨に絶望せず、如何に理想に近付くか。その試行錯誤の過程を進歩と呼ぶのであり、またその試行錯誤こそが未来への希望だと云ふ事を、本書はコペル君の経験を通して、読者に分り易く教へて呉れてゐるのだ。

 

映画の流行によつて、原作の再評価が行はれれば良いと思ふ。世の子供たちがこの本を人格形成期に読んでゐれば(大人になつてからでも意味はある)、決して卑劣漢には育たぬと思ふのだ。個人的には本書で語られる社会進化論や英雄論などに対し疑問もあるが、それでも、もし私に子供があるならば、私はその子の13歳の誕生日に本書を贈ることだらう。

因みにコペル君たちの通ふ学校は今の日比谷高等学校、府立一中だらう。旧制中学校と云ふ場所は、上﨟華紳の子息と豆腐屋の倅とが交はる、面白い場所であつたらしい。