峻厳なる生活のよろこびをさとれ、而して祈れ、絶え間なく祈れ。祈禱は力の貯蔵所だ。意志の祭壇、精神の力学、秘蹟の魔法、霊魂の衛生。(ボオドレエル『火箭』)
朝まだき、雨の函館驛を発つ。乗込んだ国鉄時代の気動車は日本海沿いを走り、幾つかの淋しき漁村を走り抜ける。車窓を開けると磯の香りが鼻を突く。苦手な香り、私が海に焦がれながら山手に住み続ける理由はこれである。
汽車に揺られること40分、渡島当別驛に着いた。当別のトラピスト修道院を訪ねる事が、この羇旅の目的であった。驛から案内に従い海沿いの路を少し歩くと、修道院の入口へと辿り着く。そこからは1粁もあろうかというまっすぐな並木路である。左右一面に広がる牧草地の綠が、京都に東京と窮屈な土地で生活して来た私の目には珍しかった。
トラピスト修道院の本館。以前、往復葉書で内部見学を申し込んだが、聞き容れられなかった。
本館は赤煉瓦造りの左右対称な建屋で、鐘楼すらない森厳、禁欲的な造りは、シトー会建築とでも呼ぶべきものである。遠目からしか見れず、且つそれほど鑑賞が面白い代物でもないので、私は修道院附属の聖リタ教会に入り、主日ミサの開始を待つ事にした。
暫くすると神父様がいらした。白いチュニック、黒のスカプラリオ、そして茶色の革帯の装い。これらは神父様が厳律シトー会員である事を示していた。そして観想修道院の中、日々歌で祈りを捧げておられる神父様の御声には、あのソレムのグレゴリアン・チャントと同じ、ただひたぶるに神に仕える者にしか出せぬ(世俗に阿る流行歌手風情には決して出せぬ)、透徹さがあった。
ミサ後、この地にも関口教会よろしく「模倣ルルド」があると云うので、訪ねる事にした。徒歩30分と案内にある。
思いのほか歩くし、坂も登る。道すがら、白樺と杉の葉叢の風に靡く音に耳を澄ます。都府の喧噪は彼方、忘却の裡。見晴るかす北の大地。深呼吸。何と心地が良い事か。心身が靈に満たされる。そんな瞑想的な気分を楽しみながら歩を進める事20分。マリア様が見えた。
周りには誰も居ないので、私は気兼ねなくマリア様の前に跪き十字を切って、Credo、Pater Noster、Ave Maria、Gloria Patriをグレゴリアンの旋律で唱えた。ああ、満足。記帳にこう記した。「主、我等を憐み給へ Vincent de Paul K.M.」。
誰も来まいと見晴らし台で煙草を呑んでいると、下から家族連れが。愉しそうな会話の中に、少年の呟きが聞こえた。
「こんな洞穴の為に30分だよ...」
そうだよな、と笑ってしまった。子供は正直で可愛い。一般の人にとっては何も面白くないし、有難い事もなかろう。しかし折角ここまで来てくれたのだから、少年には知って欲しかった。「こんな洞穴」で行われた神秘が、何千何万と云う人々を絶望の淵から救ったのだ。君の眼の前の男も含めて。君の知る中に、同じ事を為し得る存在はいるだろうか。
訪問: 2023年8月13日