花の色は 移りにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに
外は変わらず暑い。主日のミサをサボタージュ、音楽を喪った教会は私を惹付けない。昼餉はいつものフランス料理屋で。クリュディテが美味しい。マダムと夏のjauntについて会話してすぐ帰宅。室温24度に保たれた私の書斎。黎明の光通さぬ朱子織の窓帷は常時閉ざされ、寝台の脇にあるサイドランプが唯一の光源となっている。私はこの微かな灯の下で、自らの世界に想いを馳せている。
先ほど観た映画が余りに酷かったので、ルイ・マルの『鬼火』で気分を変えようと思った。エリック・サティのジムノペディ、グノシエンヌが印象的な本作は、紛れもない名作。モーリス・ロネ演じる失意の男。「虚しさ」や「憂鬱」に蝕まれた彼の心を、暗く静的な映像が描破する。
主人公は若さを失った今になって、愛する人も、仕事も、資産も何も持っていない事に絶望している。彼には情熱を注ぐ対象がないのだ。
姿見には23 julletの白文字(奇しくも今日)。この自殺の日を迎え、彼は且つての友人を訪ね歩く。ただの暇乞いか、或いは友人らの生き様から「生」の意味を再発見したかったのかもしれない。
友人らはみな、曲りなりにも自らの「生」を受容し、適応していた。だが彼の目にはそれが非道くつまらないものに映った。結局、彼の「生」への失望は変わらず、彼はピストルを胸に当てた。
こういう病に侵されている中年は、特に東京に於ては多かろう。私の十年後をみているようだ。しかし彼には彼を愛してくれる女が居て、引き留めてくれる友人が居て、働かずに食べてゆけるだけの金もあって...。私の「生」に対する失望の方、彼の数十倍になりそうだ。