Mon Cœur Mis à Nu / 赤裸の心

「美」といふものは「藝術」と人間の靈魂の問題である

ヴィリエ・ド・リラダンの生涯(3) 初戀

新宿のカフェで、年端のゆかぬ、それこそ十五にも満たぬ少女らが、楽しそうに援助交際の話をしているのを偶然耳にして以来、心緒が絲の如く乱れている。現代社会の陥っている頽廃の異常な深さに、私は絶望しそうだ。

ベネディクト16世は回勅でこう述べられた。

人をキリスト信者とするのは、倫理的な選択や高邁な思想ではなく、ある出来事との出会い、ある人格との出会いです。この出会いが、人生に新しい展望と決定的な方向付けを与えるからです。

彼女らが何を介してでも可い、イエズス・キリストと出会えるよう、聖霊よ取り計らってください。

 

とんだ前置きであった、本題に入ろう。

ヴィリエは17歳の頃、故郷のブルターニュ、レンヌの少女に初恋を経験する。だが悲劇的な結末を迎えたというのが、研究者共通の見解である。従兄ロベール・ドゥ・ポンタヴィス・ド・ウセーの伝記(Villiers de l'Isle Adam, 1893.)によれば、その恋は少女の突然の死によって遮られた。またルイ・ティエルスランの研究書(Bretons de lettres, 1905.)によれば、少女は修道院に入るためヴィリエのもとを去ったという。後者の説は推測の域を出ないのだが、彼の小品『至上の愛』を裏付けるものとして、支持を得ている。

ヴィリエの諸作品には2種類の人々が登場する。「理想の伴侶と偕に生きること」が叶った人と、叶わなかった人である。後者に挙げられるのが『反抗』のエリザベート、『トリビュラ・ボノメ』のクレエル・ルノワール、『サンチマンタリスム』のマクシミリアン、それに『未来のイヴ』のエワルド卿など。ヴィリエをして、これら心の裡に「流謫」を抱く人々を描破せしめたのは、彼自身の初恋への追憶、魂の奥底に生涯抱き続けた恋に対する哀惜であった。

 

ledilettante.hatenablog.com

ledilettante.hatenablog.com

ledilettante.hatenablog.com