Mon Cœur Mis à Nu / 赤裸の心

「美」といふものは「藝術」と人間の靈魂の問題である

メーテルランク『モンナ・ヴァンナ(Monna Vanna)』1902

1925年新潮社より上梓された山内義雄の飜譯を読む。

『モンナ・ヴァンナ』。"Monna"は既婚女性に対する尊称"Madonna"の省略形、Vannaは女性名"Giovanna"の省略形、つまり「ジョヴァンナ夫人」の意である。名こそドン・ジョヴァンニに通ずる所があるが、本作のモンナ・ヴァンナはこの漁色家を白眼に見下げる、叡智と美と正義とを具へた「永遠の女性」である。

 

三幕からなる戯曲。場所は14世紀のイタリア。
フィレンツェ軍の包囲に遭ひ、敗北に瀕したピサの司令官、その妻ヴァンナは、敵将の意に従ひ、飢ゑた三万の人民の為、彼の下へ行く事を肯じた。

 

個性に富んだ登場人物。筋の立つたプロット。上演したら立派な英国風のCostume Playになるだらう。「象徴」は陰を潜め、古典的と云つても可い程に円熟した作品。と云ひつつも、メーテルランク諸作品に特有の「峻烈な愛の調べ」は本作に於ても健在であり、この点はボードレールリラダンマラルメの系譜(象徴派詩人の系譜)に通じてゐる。

オペラにしたらさぞ見応えあらうと思つた所、アンリ・フェヴリエなる作曲家が曲を付けてゐた。残念ながら凡作だ。因みにラフマニノフも曲を付けてゐるのだが、此方は未完に了つてゐる(権利の問題らしい)。

 

最期に「運命」について。若き頃のメーテルランクの運命論は悲観的、「運命は冷然たるもので人間は其れに抗ひ得ない」と云ふ立場だと、これ迄述べて来た。だがメーテルランク齢四十の時に書かれた本作に於てはどうだらう?

ヴァンナ「戀をするとどうして殿方はさう弱く卑怯になるのです(...)たとひ運命の力をもつてしても、希望を奪はれるといふことになれば、私だつたら執念く抗つたことでせう!私は運命に云ふのです『お退き、私が通るのだ……』」pp.103-4

明かなる態度の軟化。運命を覆す人間の意志の力への期待が見えはしないか。但し本作が決して楽観論に拠つた作品でない事は銘記して置かう。

マルコ「人間といふものはかなしいかな正義でありたいとおもへばおもふほどかへつて一生の間、大なり小なり幾つかの不正のなかを立迷はなければならないことになるものだ」p.129

 

読み応へのある優れた作品であつた。もう黎明だが、、。

 

その他備忘録

・幼きヴァンナが指輪を水に落とし、若きプリンツィヴァリーは池に飛込んでそれを拾ひ、再び彼女の指にはめて遣る。メーテルランクはこのイベントに大層なロマンを見出してゐるらしい。『ぺレアスとメリザンド』に同様の情景があつた様な。

 

飢死ぬ(かつゑしぬ)
エーテル(aether) 光が伝搬するために必要な媒質
廃兵(はいへい) 負傷して障碍者となった兵士
鳥占(とりうら) 卜占の一つ
紗(うすぎぬ)
練り 神輿や山車を動かす様子
屍衣(しい)
淪落(りんらく) 落ちぶれること、零落
到頭(とうとう)
味をやる うまい事をする
乾坤一擲(けんこんいってき) 運を天に任せて大勝負をすること
鞋(くつ) 藁で作った履物。靴、沓とは別字
キンバイカ 雄蕊が目立つ白い5弁の花。マートル
被け物(かづけもの) 褒美として与える物
雄材大略(ゆうざいたいりゃく) 傑出して大きな才能と計画のこと
sag たるみ
tetrarch 古代ローマ帝国の四分領太守、ヘロデ
idiosyncratic 特異な、独特な
Jew's ear キクラゲ