Mon Cœur Mis à Nu

「美」といふものは「藝術」と人間の靈魂の問題である

ヴィリエ・ド・リラダンの生涯(4) パリへ;『處女詩集』

1855年家族に伴われパリに出京する機会を得たヴィリエは、Café de l'Ambiguでルメルシエ・ド・ヌヴィルら文学青年との交流を始める。劇作家として身を立てるべく運動をしたようだが叶わなかった。翌年失意の裡に帰郷する。

ヴィリエは憂鬱にサン・ブリューで文筆活動を続けていた。父ジョゼフは息子の精神状態を案じてソレムへ送る計画を立てたようだが、結局は1858年、若き法律家アメデ・ル・メナン・デ・シェネーと偕に、レンヌに程近きモンフォールへと静養に向わせた。

ヴィリエは牧歌的環境の中で詩作に励む。1858年には個人制作の小詩集Deux essais de poésiesを残しているが文字通り習作でしかない。彼の本命は『處女詩集(Premières Poésies)』であった。高名な製本家ニコラ・シューランをリヨンに訪ねて、3,000フランを払った上で(現代の価値で1フラン=約千円)自費出版するが、文壇からは不評というより殆ど無視された。事実、本作にヴィリエ・ド・リラダンらしさはみられず、時代遅れのロマンティシスムに被れた凡作との評は免れ得ないだろう。後年のヴィリエは本作について、「見つけられる限りの発行部を燃やす」と誓いを立てている。

なお同時期、ヴィリエはルメルシエの友人ビクトル・コシナ主筆の『ラ・コーズリー』誌上に音楽批評を発表している。だがジャーナリズムで糊口を凌ぐことは本意でなかったようで、二度の寄稿(ひとつはあの『イル・トロヴァトーレ』論)で終わった。