Mon Cœur Mis à Nu / 赤裸の心

「美」といふものは「藝術」と人間の靈魂の問題である

ヴィリエ・ド・リラダンの生涯(2) 幼少

ロッシーニは偉大だ。『セビリアの理髪師』を聴いている。単純明快、朗らかで心弾む旋律。ドイツ・ロマン派の後期作品ばかりを聴いて凝り固まった我が身に沁みわたる、陽の光。

 

さて本題。まさかの第2回である。
リラダン一家は、マティアス、父ジョゼフ・トゥーサン、母フランソワーズ、伯母ケリヌー、そして僅か2人の下僕とともに、サン・ブリューの荒廃した館に住んでいた。生計を支えていたのは伯母ケリヌーの財産である。

夫婦仲は良くなかった。そもそもこの結婚はフランソワーズに影響力を有する伯母の強い勧めによるもので、フランソワーズ自身は望んでいなかった。また彼女は夫の事業にも嫌気が差していたようで、1843年には夫婦別産請求を裁判所に申請している。ともかく養育に適した安定的家庭環境ではなかった。

マティアスの教育は散発的、非体系的なものであった。事業に勤しむ父が転居を繰り返したことが要因であるが、マティアス自身の不羈奔放な性格が災いして放校となったケースも多い。確認できる限りに於ても、1847年から1853年にかけて7校の中等学校(コレージュ)・高等学校(リセ)を転々としている。ただし家庭教師を時折雇っていたようだ。

マティアスは決して劣等生ではなかった。ラヴァルのリセでは羅語、希語、綴方、暗誦、宗教の学科で表彰を受けている。またレンヌのコレージュでは声楽とピアノの補講を受けている。音楽の才に恵まれていたようで、地元歌手の伴奏程度なら軽々とやってのけた。

聡明なマティアスであったが、学友はおらず常に孤独であった。「天才の孤独」。同窓生は彼を気分屋、妄想癖があり、横柄、懐疑的な人間、すなわち「嫌な奴」と記憶している。そうした彼のエピソードを2つ挙げよう。
・サン・ブリューの聖シャルル学院に学ぶ頃、同級生に文学的自惚れを揶揄されたマティアスは、その少年の目前で、即興の自作『せむしの歌(Les Chants du bossu)』を書いてみせた。
・13才の頃、ある少年が祖父を侮辱したというので、多感なマティアスは即座に決闘を申し込んだ。しかし約束の日、約束の場所に相手が来なかった為に決闘は実現しなかった。なおこの件に関して、父は息子を諫めるどころか激励したという。

真実味のあるエピソードだ。作家の「韜晦趣味」と「貴族の矜持」とを思わせる。これらは、マティアスが幼少期に於て、既にそのユマニテを確立していたことを示すものではないか。