Mon Cœur Mis à Nu / 赤裸の心

「美」といふものは「藝術」と人間の靈魂の問題である

リラダン『遺稿断章』1

リラダン研究書の閲覧申請を断られた。落澹のあまりに、その三流大学図書館とレファレンスの婢女とを罵り且つ呪い(無論心の中で)、腹癒せに来月のオペラ『ボリス・ゴドゥノフ』の最上席を予約した所で、何とか腹の蟲は治まった。本の方は£70で英国から輸入することにした。到着まで時間を要す。

さて本題。『遺稿断章』というoeuvreでないことは一応言及しておく。

1. 覚書

慾望とは何か。イエズス・キリストを愛せぬやう唆される恐れがあるほどには苦しまぬこと。

恐らく破れ紙にでも遺っていたのだろう。執筆年など不明。若い時に書かれたのか、赤貧の極みの頃に書かれたのかとで意味合いが異なってくるから、そこは明らかにしたい所。悲劇的な美くしさを帯びたこの言葉に、ヴィリエの矜持を覚えずには居られない。彼が生涯矜持を保持し得たのは、斯く地上の生活を限定していたからであろう。

それにしても、労働者の寡婦から同情される窮乏とは!だが彼は、友人らの援助を峻拒し続けた。それどころか父の死に際しては、その借財を快く引き受け、貧苦の裡にあってその支払いに努めたという。

哀れな乞食にお情けを、お願ひでございます!
『残酷物語』所収「民衆の声」

最も崇高な意味で「貴族」たる彼は、人類社会に普遍の此の言葉と無縁であった。貧苦は彼の肉をこそを蝕んだが、その精神に影響を与えることは、遂に為し得なかった。

 

と、ヴィリエを神格化することを斥けたいのだ。
私の試みはパリサイ派の愚行、墓掘り人夫の所業に違いないが、私は彼の「生活」を知りたい。それが作品中往々にしてみられる「諷刺」の理解に繋がると、信じるからである。

彼の略年譜をみるに、幾度か「生活」を試みた形跡は確認できる(そして其の悉くを失敗をしている)。後年パリ市議会議員に立候補したことは、彼の韜晦、諷刺の趣味によるものだとしても、例えば英国大使館に職を得ようと画策したことなどは、「真面目」な「上流紳士」たらんことを望んだ証左、ヴィリエを神格化する者達を赤面させる事実であろう。「夢みる人々」に対するしっぺ返し、是れである。