Mon Cœur Mis à Nu / 赤裸の心

「美」といふものは「藝術」と人間の靈魂の問題である

遠藤周作『イエスの生涯』1973

四旬節には、イエズスやカトリックに関連する本、映画、音楽を味わう様にしている。本日は遠藤周作の『イエスの生涯』を再読。

本書は深いレアリスムに根差したイエズス伝。「神は愛」。遠藤はこの至純至厳の本質から外るる事なく、イエズスの生涯に「現代的解釈」を附し、以て「日本人につかめるイエス像を具体的に」提示する事を試みた。小説家らしい創作が可成りの部分を占めるから、本書は歴史小説として読むのが可い。

「一度はイエズスを見抛した弟子達が、何故信仰に燃える使徒に変容したのか」という謎。遠藤はイエズスの「復活」を文字通りのそれと捉える事に留保を付けながら、この謎に対して部分的説明を与えた。成程、物質主義の奴隷、経済的動物の日本人には読み易いだろう。

だがどうも、これは遠藤自身も十分に認識している事と思うが、矢鱈にイエズスの奇蹟を否定し、我々と同じ「人間」としてイエズスを捉える事に躍起している様に感ずる。私としてはここに人間の認知力を過信する傲慢を、パリサイの狭量を、認めざるを得ないのである。

イエズスの生涯に対して、「現代的解釈」とか「歴史的事実」とかを云々する事に、果たして意味はあるのだろうか? 「この人(イエズス)の生涯には我々の人生を投影してなお摑み難い神秘と謎があるのだ」と遠藤自身が書いている。その通りだ。ならば語り得ぬ事に対しては「沈黙」すれば可いのにと思ってしまう。

 

この辺りの分別が上手いのは、やはりフランス象徴主義の人間である。

選擇しなければならないのですから最善のものを擇びませう。そして「信仰」があらゆる現実の唯一の基礎であります以上、神を擇びませう、「学問」がその流儀でこのやうな現象の諸々の法則をわたくしに説明しても無益でございませう、依然としてわたくしは、その現象の中に、唯わたくしの魂を向上せしめ得るものをのみ観、魂を低下せしめ得るものを見ないでせうから。

フランス象徴主義の人間は、科学の隆盛と自らの衰退とを熟知していた。だが進歩主義、科学万能主義の滔々懸河は、彼等にとって無意味なのだ。それは獣の慟哭に似て、人間の耳に聞こゆとも応えようのないもの。故に彼等の信仰が揺らぐ事は無かった。

 

神と、信仰に生きる人間との交わりに、不純物の入込む余地はない。私も唯福音を信じ、徒事に心を向ける事なく、魂の平安を守りたいと思う。この点リジューの聖テレーズが亀鑑となるだろう。