中央公論新社。底本は1975年に他社から上梓された評論。典雅の士ジョージ・ブランメルのアネクドートを持ち出して、ダンディズムを問う。
ブランメルが体現し、ボードレールとドールヴィイが理論化した「ダンディズム」。さながら神の愛を体現したイエス・キリストと福音書記者たちのロールプレイのよう。この3者の「在り方」に関する哲学(=ダンディズム)のうち共通のもの、異なるもの、特に後者に注目して読むと面白い。
なお著者は「ダンディズム」の不文律2箇条を導き出すことに成功している。
一、立居振舞、衣服など、個人の外観を特徴づけるすべてのものに、異例の重要性を割り当てること。ただし仔細は各自の個性的刷新にゆだねる。
二、「不感無覚<ニル・アドミラリ>」というダンディズムの理想への努力。
上記2点を、不断の意志と、きびしい自己統御を通じて達成し、人工的境地に至ることが、曰く「ダンディズム」である。
【引用】
ダンディズムとはなにか? 当初においてはかなり単純な一現象であったものが、漸次複雑な形態に進化し、その間には様々な種類の実践者、すなわちダンディの群を生み出すに至った
ブランメルの衣装哲学
町を歩いていて、人からあまりまじまじ見られるときは、きみの服装は凝りすぎているのだ
ボードレールの女性観
著者も指摘しているが、ダンディにとって女性は、卑俗な誘惑の権化に他ならない。
女性は自然である、すなわち唾棄すべき存在である。要するに女はつねに野卑である、すなわちダンディの対極だ
著者、バルベー・ドールヴィイについて
バルベーの多血質の会話と、けばけばしい装いは、〈着付けのいい男は人目についてはならない〉と言ったイギリス紳士とは、なんというかけ離れようであろう。(...)個性的な型のダンディズムをバルベーは自分のうちに創り出したのである。(...)しかし役柄は変わったとはいえ、自らに課した理想的形態を追い求める点においてはいささかも変わりはない。