サンルイ島のセーヌ河岸にて
曇、寒し。セーヌ河岸に寓居してゐる所為で、湿度が癪に障る。ブーツに黴が生えた。昨日はサン・ジェルマン・デ・プレの裏手にあるウジェーヌ・ドラクロワのアトリエに、本日郊外セーヴル(言はずと知れたセーヴル焼の生産地)にある国立陶芸美術館まで遠征をした。トラブルも旅の一部と言へども、巴里のpublic transportationにはうんざりしてゐる。
古色蒼然たる石造りの城の玻璃窓に感動を覚えなくなる頃、或いは英語の通じぬ事に嫌気が差して来る頃、私は帰国後の事を考え始める。フランスで見聞した事柄を、どう日本に持ち帰るかに、思考が移る。
思ふに、西洋のものを唯東洋に移入する事は、さしたる価値が無い。「完璧」に移入する事など不可能で、劣化物にしか成り得ない。それは例へば、巴里のアパルトマンのファサードに憧れて、それと同じものを日本に建築しようとしても、素材の調達、職人の手配、気候の違ひ、はた建築基準法で困難を見て、妥協が積重つた結果、醜悪なる模造品が出来上がるやうな事である。
肝要なことは、西洋の美の秘鑰を抽象のレベルで把握し、それを日本の生活様式に落とし込む事である。一元性よりも二元性が「いき」である事は、九鬼周造が書いてゐる。我が国の貧窮の美学の裡に、他者が気付くか気付かぬかの程度に、路易王朝の優雅を表現する事ができるか。そこに懸かつてゐる。
post-scriptum: 下呂温泉の水明館に2週間逗留する方が、精神的にも金銭的にも良いのでは。