Mon Cœur Mis à Nu / 赤裸の心

「美」といふものは「藝術」と人間の靈魂の問題である

宮野ケイジ『夢二 愛のとばしり』2015

先日の泉屋博古館はよかつた。『源氏物語』等の物語絵の展示と裸婦画家の黒田清輝に就いて少し。私は日本美術に疎い。故に何を美くしいと見るか感覚を用ゐての勝負である。それはそれで面白い。

 

展示よりも、天気と連れがよかつた。すなはち沛然豪雨の午后、しとどに濡れて光る深き緑と盛りの紫陽花、そこに杏色のワンピースを著た、黒髪の婦人。展示は頭に残つてゐないが、彼女が「誰が袖図屏風」を気に入つた事だけは記憶して置かう。

 

色よりも香こそあはれと思ほゆれ誰が袖ふれし宿の梅ぞも

 

次は庭園美術館竹久夢二の展示である。過日発見された『アマリリス』なる画を売りにしてゐる。竹久夢二は大正時代の美人画家。一寸やつれて、それでゐてたをやかな女を描く。その頽廃と自由とを特徴とする抒情画はまさしく大正ロマン。描かれる美人は折々の情人をモデルにしてゐるとか。たまき、彦乃、お葉。

 

展示会の予習の為、標題の映画を観てゐる、本当は松竹の『竹久夢二物語 恋する』(1975)の方を観たかつたのだが。はなから期待はしてをらぬが、それにしても低劣だ。驚く程だ。制作者共はどういふ気持でこの作品を作つたのか?これを芸術だと言張るのか?不思議だ。何故これ程に醜いのだらう?卑陋を耻ぢぬのだらう?彼奴輩は物を知らぬ。私を顧問として雇ひ給へ、少しはマシにして遣らう。