Mon Cœur Mis à Nu / 赤裸の心

「美」といふものは「藝術」と人間の靈魂の問題である

霞が関に於ける「官庁集中計画」について

諸國の外務省は、屡々その所在地名で呼ばれる。
英国の「ホワイトホール」、フランスの「ケ・ドルセー」、ドイツの「ヴィルヘルム・シュトラーセ」といった具合に、日本の場合は「カスミガセキ」である。

日本の行政を司る機関が集積する霞が関であるが、これは天皇親政を目的として、明治3年に外務省が設置されたのを端とする。現在のイメージからすれば無機質なコンクリートの集合体である霞が関だが、明治20年代、新政府が条約改正に無心していた頃の計画では、霞が関はパリやベルリンを模した荘厳なバロック街になる予定であった。

この計画を主導したのは井上馨。欧化政策の推進者である彼は、日本が国際公法の保障を受得る「文明国」であることを西洋列強に知らしむるに、「文明的な」官庁街が役立つと考えたのであろう。

初めに依頼を受けたのは工部大学校で教鞭を取っていた英国人ジョサイア・コンドルであった。彼は鹿鳴館の設計を手掛けた新政府御付きの建築家で、辰野金吾ら多くの建築家を教育した。その彼から2つの基本設計図が1885年(明治18年)に提出された。フランス式庭園を囲む形で官庁が並ぶというもの。

 

これと並行して、1886年(明治19年)には司法省庁舎の設計で知られるドイツ人建築家ヴィルヘルム・ベックマンが計画書を提出している。これはコンドル案にまさる大規模な計画で、放射状の大通りはナポレオン三世のパリを彷彿とさせる(下図参照)。

f:id:j14-vince:20180515190152j:plain

しかしこの計画は、当時の国家予算の6分の1を要求した上に、霞が関周辺の脆弱な地盤に鑑みて実現困難と判断された。

 

1887年にはベックマンと協働で建築設計事務所を営むヘルマン・エンデと都市計画技術者のジェームス・ホープレヒトが、ベックマンの計画を縮小し、実現可能な計画を提示した。(下図参照)

f:id:j14-vince:20180515191259j:plain

エンデはホープレヒトの計画に疑義を抱いたが、それを細部修正して完成させた(下図参照)。

f:id:j14-vince:20180515191857j:plain

この計画は実現する筈であった。しかし本計画の積極的推進者であった井上馨は、不平等条約改正案の取り纏め失敗を糾弾されて失脚。推進者を喪った官庁集中計画は、泡沫の如く消えたのであった。

 

f:id:j14-vince:20180515192719j:plain

コンドルに学んだ辰野金吾の作品集。霞が関はこうなっていたかもしれない。