Mon Cœur Mis à Nu / 赤裸の心

「美」といふものは「藝術」と人間の靈魂の問題である

プーシキン『エヴゲーニイ・オネーギン(Евгений Онегин)』1832

いつものフランス料理店、隣のテーブルで夫人と5歳位の男の子とが会話をしてゐる。タイムマシンがあつたら、過去と未来のどちらへ行きたい? 男の子は迷はずに答へた、未来と。

 

プーシキンの韻文小説。一月に新国立劇場で、チャイコフスキーの『エフゲニー・オネーギン』が演奏される為、その豫習として岩波の散文訳を読んだ。

 

若い時に若かった人は仕合せである。(...)だが、自分の青春が空しく過ぎたと思うのは、何と淋しいことだろう。自分がたえず青春に背いて来たと、また青春にみごと一杯食わされたと、自分のよりよい望みも新鮮な夢も、秋の木の葉が朽ちるように、みるみるうちに朽ち果てたと思うのは。

 

何があなたを私の足もとにひざまずかせたのです? ばかばかしい! あなたほどの心と智慧を持ちながら、つまらぬ感情の奴隷におなりになるなんて。

 

通俗的で、若書で、著者の感慨が屡々挿入されるのが私にとつては鬱陶しく、退屈した。韻文訳で読めば、この評価は変はるだらうか。

だがモーツァルトがドイツ語でオペラを作曲したやうに、プーシキンはロシア語で文学をした。ロシアの社交界から、田舎の農民の生活まで、その風俗をロシア語で鮮やかに描いてみせた。そこに価値があるのだと思ふ。

ドストエフスキーは斯く云ふ。

 

タチヤーナのオネーギンに対する勝利は、信仰と確信の喪失から生じる知的空虚さに対する、ロシア人の正義感の勝利の象徴である。