陰のち晴、冷気。チェスターフィールドコートを着用して事務所に向ふ。文京の並木の木の葉が愈々秋色を深めてゐる。
仕事中に谷崎の『武州公秘話』と『少年』を読み、露悪趣味に疲れた私は、何か清澄な物語を読んで洗はれたいと思つた。私の脳裡に堀辰雄が浮かんだ。
『美しい村』、例のごと軽井沢を舞台に、肺病で感傷的な青年が主人公の、半伝記的小説である。谷崎にしろ堀辰雄にしろ弱き男を描いてゐるのだが、その弱さの性質は大分と違ふ。何故私は前者を懦弱と唾棄し、後者を詩的と評価するのであらうか。弱弱しい、意気地のない、センチメンタルな男の戯言だと総括して、了りにしないのか。さうできぬのは、多分この男が、私に少し似てゐるからなのだらう。
夏を迎ふるまへの軽井沢の、控へめな時の移ろいを、斯くも精緻に、ハイネか何かの詩の如くに瑞々しく描く様には、感嘆の念を禁じ得ぬ。そしてたうたう顕はれる美くしき夏<コーダ>。恋の季節の優しき苑生<エデン>。
私が小さな美しい流れに沿うて歩き出すと、その径にずっと笹縁をつけている野苺にも、ちょっと人目につかないような花が一ぱい咲いていて、それが或る素晴らしいもののほんの小さな前奏曲だと言ったように、私を迎えた
まだ私が彼女を知らなかった頃、一人でそこいらをあてもなく散歩をしていたときは、あんなにも私の愛していた瑞西式のバンガロオだの、美しい灌木だの、羊歯しだだのを、彼女に指して見せながら、私はなんだか不思議な気がした。それ等のものが今ではもう私には魅力もなんにも無くなってしまっていたからだ。そうして私は彼女の手前、それ等のものを今でも愛しているように見せかけるのに一種の努力をさえしなければならなかった。それほど、私自身は私のそばにいる彼女のことで一ぱいになってしまっているのだった