Mon Cœur Mis à Nu / 赤裸の心

「美」といふものは「藝術」と人間の靈魂の問題である

ヴィリエ・ド・リラダンの生涯(1) 血統

シリーズ『ヴィリエ・ド・リラダンの生涯』を連載しようと思う。多分続かない。2月にある『タンホイザー』の公演に向けて、ボードレールワーグナー論も読まねばなるまいし。

 

ジャン・マリ・マティアス・フィリップ・オーギュスト・ド・ヴィリエ・ド・リラダン(Jean Marie Mathias Philippe Auguste de Villiers de l'Isle-Adam)伯爵は1838年11月7日、ブルターニュに住まうフランス屈指の名門に生誕した。

ヴィリエ・ド・リラダンの血統は10世紀にまで遡ることができる。その連綿たる家系には、ジャン・ド・ヴィリエ・ド・リラダン(1384-1437)、1418年にアルマニャック軍から、次いで1436年にイングランド軍からパリを奪還した名将や、フィリップ・オーギュスト・ド・ヴィリエ・ド・リラダン(1464-1534)、ロドス島に逼る邪教徒と戦ったマルタ騎士団の初代グランドマスターが名を連ねる。

しかし繰返される遺産分与の結果、17世紀頃、リラダン家は財政困窮に陥り、1768年に祖父のジャン・ジェローム・シャルル・ド・ヴィリエ・ド・リラダン侯爵が家督を継ぐ頃には、財産と呼べるものは殆ど残っていなかった。

1768年に侯爵位を継いだ祖父ジャン・ジェローム・シャルルは、ヴィリエ・ド・リラダンの血を忠実に受けていた。即ちエキセントリックな人柄であった。海軍士官を志しパリに遊学するが、学は実らぬまま帰郷。大革命が興ると隠遁者になる途を峻拒し、王党派の戦いに参加。革命の最中でPenanhoas(検索しても出て来ないがフランスの地名?)の領地と、サン・ドマングの荘園とを失う。復古王政の時代に、革命で失った財産への補償として27,867フランを下賜されたが、8人の子供を養うのには十分でなく、リラダン家の財政は不安定なままであった。なお彼は共和国政府とは勿論、復古王政ともそりが合わず、度々訴訟事件を起こしている。

父ジョゼフ・トゥーサン・シャルルは、聖職を志しパリのサン・スルピス神学院に学ぶ。ジャン・ジェローム叱咤の甲斐もあり、奨学金を得る程度の成績は残していたようだが、歴史が知るように、彼は神学の途を放棄して故郷ブルターニュで事業を始める。

事業!妄執に駆られた人間の「奇行」をそう呼んでいいのなら。ジョゼフ・トゥーサンの起ち上げた組織、"Agence Villiers de l'Isle-Adam"唯一の使命は、地下に埋蔵された黄金の弛みなき探究であった。貴族たちが革命の手を逃れるべく隠した銀や宝石、マルタ騎士団の財宝、これらがブルターニュの地下に眠っていると彼は確信していた。故に斯の土地を買い漁り、発掘調査をし、売払う。事業が齎すのは莫大な損失が常であって、この事業のために一家は幾度となく破産に瀕した。人々は彼をビジネスマンではなく「失われた中世の栄光の反映体(the last reflection of medieval glories)」と看做し、冷笑していたようである。

この稀世の奇人ジョゼフ・トゥーサンと、貧しきブルトンの旧家の娘、マリ・フランソワーズ・ル・ネヴ・ド・カーフォールとの間に生れたのが、一人息子オーギュストである。彼が受け継いだ父祖伝来の遺産に、形而下のものは何一つ無かったと云ってよい。