Mon Cœur Mis à Nu / 赤裸の心

「美」といふものは「藝術」と人間の靈魂の問題である

ドビュッシー『フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ(Sonate pour flûte, alto et harpe)』1915


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ドビュッシーによる三楽章から成るソナタ。フルート、ヴィオラそしてハープの三者の組合せは他では知らぬ。特に第二楽章、ヴィオラが良い味を出している。この曲は彼の死の3年前に書かれた。病に臥す日々の中で作曲されたからだろうか。その曲調は、あたかも陽が雲で見え隠れするように振れ、不安な印象を聴き手に與える。

今亡き最愛の人と木洩れ日の路を散歩した、かの日のことを想い出す時、この曲の靈しき調べが、我々の脳裡をかすめる事だろう。

 

楚々として 清らで美しいさま
浅葱 緑掛かった藍色
クレソン 和蘭芥子の別称
at large 逃亡中で

 

20220903日記

銀座まででかけて、ジャケットを新調。
生地は伊太利製の黒無地。ダブルブレステッド、黒水牛の6つ釦3つ掛(ここが重要)。ピークドラペルに、サイドベンツ。型紙から作成して頂くから、納品に時間がかかるとのこと、問題ない。

モーリアック『イエスの生涯(Vie de Jésus)』1936

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フランソワ・モーリアック(François Mauriac)が遺したイエス伝。共観福音書(特にルカ伝福音書)と第四福音書とを豊富に引用し、彼の解釈を加えて、イエスの生涯が語られる。
解釈と云えば、殊にイスカリオテのユダの心理に関する記述が独創的。彼もまたイエスを愛した弟子のひとりであることに鑑みての、彼の嫉妬、怨み、そして絶望が描写されている。新しい学びがあった。

 

銀三十枚、そんなものが彼にとって何であろうか?彼がイエスを愛していなかったなら、ほかの者よりも愛されていないことを感じなかったなら、おそらくイエスを引き渡さなかったかもしれない。

 

ユダについて私はいつも不憫に思う。
「ここにイエスを売りしユダ、その死に定められ給ひしを見て悔い」(マタイ27:3)
「彼その銀を聖所に投げすてて去り、ゆきて自ら縊れたり」(マタイ27:5)
ユダは自らの為した罪を悔いたが、遂に救いは與へられなかった。

使徒言行録の記述は更に凄惨を極める。
「この人は、かの不義の価をもて地所を得、また俯伏に堕ちて直中より裂けて臟腑みな流れ出でたり」(使徒行伝1:18)

人の子による贖罪を完成させるため、神は裏切り者を必要とした。それがユダである。彼もまた全人類の救いのため、自らを犠牲にした一人ではないのか? 主よ、ユダに対しても憐れみを。

 

青丹によし(あをによし) 「奈良」をみちびく枕詞、万葉集に27首詠まれている
滔々たる(とうとうたる) 人の話などが淀みなく流れるさま
懶惰(らんだ) なまけ怠ること
吾人(ごじん) 一人称の人代名詞
ゆくりなく 思いがけなく、突然に
重畳の至り(ちょうじょうのいたり) この上なく喜ばしい

シベリウス『交響曲第4番イ短調』1911

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演奏会に初台まで出掛ける。演目はエルガーのヴァイオリン協奏曲とシベリウス交響曲第4番イ短調

シベリウスの第4番を通して鑑賞するのは初めてのことだった。古典的形式美を誇る前半のエルガーとは好個の対照を為しており面白かった。暗晦とか晦渋とか云われているが、暗晦な心を持つ人間にとっては、さながらBalulalowのようである。

アンコールは「愛の挨拶」。芸のない。

 

ラ・ロシュフコー『寸鐵(The maxims and reflections)』1664

寸鐵...短くて人の胸をつく語句。

ラ・ロシュフコー公爵は17世紀フランスの軍人、政治家。策謀の貴族社会に於いてリシュリュー卿やマザラン卿と対立し、辛酸を嘗めた経験を持つ。そんな彼の遺した箴言集、すなわち本書は、人生の真理を道破するものとして、古来高く評価されてきた。

全篇を通して犬儒的でさして面白くもない。いつの世も「箴言集」なんてものを遺すのは敗者である。敗者から学ばんとするより、勝利者(=イエス・キリスト)を師とする方が、悧巧ではないか? 

 

選擇しなければならないのですから最善のものを擇びませう。そして「信仰」があらゆる現実の唯一の基礎であります以上、神を擇びませう、「学問」がその流儀でこのやうな現象の諸々の法則をわたくしに説明しても無益でございませう、依然としてわたくしは、その現象の中に、唯わたくしの魂を向上せしめ得るものをのみ観、魂を低下せしめ得るものを見ないでせうから。『トリビュラ・ボノメ』

 

ただ幾つか面白いマキシムもあったので、メモしておきたい。私は269.を大変気に入っている。

 

76. 沈黙は自身なき者の取る可き最も安全の策なり。

 

95.智力の欠点は顔面の汚点の如し、老ゆるに随ひて愈々殖ゆ。

 

108.奸策と背信とは、正直に世に處する能はざる不智短才の徒之を行ふ。

 

162.己れ只一人智からんと欲するは大愚のみ。

 

198.時としては、他人の意見を利用するの智は、自己の意見を立つるの智に譲らざることあり。

 

219.癡呆なる人々は決して誠実なるを得ず。

 

269.世には非理を忍ぶ能はざる人々ほど非理なる者はあらず。

 

304.愚物にして憖ひに多少の才気ある者ほど與し悪きはあらず。

 

370.哲人は勝つよりも戦かはざるに其知慧をあらはす。

 

431.英雄豪傑は大抵油画の如し、若し之を賞賛せんと欲せば、遠く離れて観ざる可らず。

 

 

市川崑『細雪』1983

市川崑監督作。吉永小百合が雪子を演ずる。

女優陣が大変美しい。『細雪』はみたび映画化されているが、本作は筋書きも雰囲気も、最も原作に沿ったものになっているのではないか。幸子の夫である貞之助を、どうして女好きの遊び人に描いたのか、その意味は理解できないが。

雪子の野村とのお見合いで、貞之助が着ていた白のスーツが良かった。来年の夏に同じようなものを仕立てようと思う。

 

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市川崑『炎上』1958

犬神家の一族』(1976)の市川崑監督。京都大映の制作。音楽は後にオペラ『金閣寺』を作曲する黛敏郎

三島由紀夫の『金閣寺』を原作とする。題名が『炎上』、寺の名前が「驟閣寺」となっているのは、映像化にあたり京都仏教界の反対を受けたからだそう。境内の撮影も金閣寺の撮影許可が下りなかった為か知らぬが、大覚寺で行われている。

歴とした芸術作品に違いないが、原作とは根本的に論点が異なることに言及したい。
原作の主題は「観念」と「行動」の二律背反にある。しかし映画で焦点となっているのは、溝口の「永遠の美に対する崇拝」及び「承認の欲求」。原作に於てこれらは副次的な意味しか持たない。換言すれば、原作は映画よりも抽象であり、深遠であるのだ。

尤も、映画とは第一次義的に「大衆向け」の「娯楽」である。そのために内容を容易にしたかったのだろう。

古し京都でロケ撮影を行った映画をたくさん知りたい。上の写真は京都駅とみて間違いなかろうか? 

 

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20220816日記

晴れ、沛然と降る夕立ちあり。変わらず暑い。
山梨県立美術館まで出かけた(大変な遠出!)。ここはミレーはじめバルビゾン派のコレクションで有名である。17の頃か、NHKの特集で存在を知った。以来いつか訪ねてみたいと思っていた。「種蒔く人」が目玉であるが、私が足を止めたのはミレーの初期作品。早世の妻ポーリーヌの肖像画。柔和な微笑みを湛える少女。絵画のやさしさに惹かれた。

 

20220817日記
雨、暑い。
岐阜県立美術館を訪問。ここはオディロン・ルドンはじめ象徴派の作品群で有名。ギュスターヴ・モローの二作品に惹かれた。『ピエタ』と『サン・セヴァスチャンと天使』。

 

リラダン『アケディッセリル女王(Akëdysséril)』1885

ヴィリエによる中篇小説。初出は1885年La Revue contemporaine誌上。
ヴィリエは「死」について生涯深い瞑想を続けており、その思考は彼の諸作品に反映されている。それは『アケディッセリル女王』に於ても例外ではなく、本作品で明らかにさるヴィリエの「自殺」についての見解は、記憶しておかねばならない。