ジャック・ドゥミ監督作。長い本題は「人類が月面歩いて以来の重大事件」の意。
突然妊娠した男性。社会の好奇の目に晒されながら葛藤する彼とフィアンセを描く。男性の妊娠により、社会の何が変わり、何が変わらないのか。コメディのようで、「男女同権」という問題を扱った社会派作品といえるかもしれない。
ジャック・ドゥミ監督作。長い本題は「人類が月面歩いて以来の重大事件」の意。
突然妊娠した男性。社会の好奇の目に晒されながら葛藤する彼とフィアンセを描く。男性の妊娠により、社会の何が変わり、何が変わらないのか。コメディのようで、「男女同権」という問題を扱った社会派作品といえるかもしれない。
ジャック・ドゥミ監督作。理想の恋人を探す男と女の物語。
同監督作『シェルブールの雨傘』で名声を高めたカトリーヌ・ドヌーヴとその姉フランソワーズ・ドルレアックが双子役で主演を務める。なんとジーン・ケリーも出演。そして音楽をミシェル・ルグランが担当する、豪華なミュージカル作品。
ドゥミの作品は観ていて疲れない。愛だの幸福だのべたな主題を扱っているのに。「ミュージカル」という性質を最大限に活かしている。
ルキノ・ヴィスコンティ(Luchino Visconti)監督作。リソルジメント期のイタリアを舞台とする。
ファーリー・グレンジャー(Farley Granger)演じる天上の美を誇る魔性の男。彼の魅力に憑りつかれた伯爵夫人が身を堕とす。「オム・ファタル(homme fatal)」とでも言えばよいのか。抽象的な概念を、このレベルまで役者に体現させるヴィスコンティの力量に感心する。
イタリア統一、新しい時代に希望を託して個人を捧げる青年たちと、ただ己が欲する所へ猪突する2人とが好個の対照を示していた。壊れていく現実から目を背けたい、そんな厭世観を感じ取り、私もやや同情を感じた。
ガス・ヴァン・サント監督作。彼はホモ・セクシュアル。黒人を誉め煽てる月並みなリベラル映画。似たような話ばかり作って飽きないのだろうか。
京都のuplinkが「京マチ子映画祭」を催している。今日観たのは島耕二が監督を務めた1959年の『細雪』だが、他にも『痴人の愛』や『黒蜥蜴』を観に行く予定。
原作のメロドラマチックな場面だけを努めて借用したような作品であった。ちょっとの仕草や変化から「察する」文化をこそ、『細雪』は描いているのであるから、この映画のようなやり方はよろしくないと思う。もっと原作者の風流を尊重すべきだ。
京マチ子が務めたのは「中姉ちゃん」こと次女幸子の役。原作中で幸子の見目は「陽気で近代的」「非常にぱっとした派手なお顔立ち」と説明されるが、イメージ通りの配役。
だが私は京マチ子よりも山本富士子に目が行った。大変な当たり役だと思う。「き姉ちゃん」こと三女雪子を演じているのであるが、楚々とした美しさを持つ雪子にぴったりの日本美人を充ててくれたなと思う。和服がよく映えていた。作中最も脚色を入れられたのが雪子であって、やや行動的過ぎるなとは思ったが、意思の固さとおしとやかさと、原作のイメージによく合っていた。
全編を通してクラマンスと名乗る男が聴き手に対し「告白」をする形。自身が「二重性」ある人生を歩んできたこと。自身が持つ傲慢さ、偽善性、孤独を独白する。
しかしそれは「懺悔」とは異なる。「だがあなただってそうでしょう」と言わんばかりの、云わば自己弁護だ。
最終的に彼がやりたかったことは、自身の告白を以て「現代人の肖像」を提示し、他者を裁くこと。「現代人」一般を弾劾し貶めることで、自分への「裁き」から逃れたかったのだ。彼は周りの人間に先んじて真理を得たことの高みに満足をしている。
娯楽小説ではない。執筆当時カミュが置かれていた状況に鑑みても、かなりの程度、彼自身の思想哲学をクラマンスに代弁させているのだろう。難しい箇所も多い、例えば身投げした女が、クラマンスの行動変化に対して与えた影響など不明瞭だと思う。人にお薦めできるかといえば、少なくとも友人にはしない。『異邦人』や『ペスト』のほうが楽しめるだろうから。
そうです、わたしたちは光を、朝を、われとわが身を赦すあの人間の聖なる無垢を失ってしまったんです。
もう12時を回ってしまったが、今日11月1日は祖父の誕生日。祖父の長寿を願ぎ奉る。
底意(そこい) 下心
女衒(ぜげん) 売春仲介業者
algebra 代数
アブサン(absinthe) 緑色のハーブのリキュール