Mon Cœur Mis à Nu / 赤裸の心

「美」といふものは「藝術」と人間の靈魂の問題である

20240420日記

晴れ、仏語学校の新学期始業。播磨坂の伊太利料理店で食事をして、小石川植物園を逍遥。躑躅が盛りを迎へてゐる。思へば昨年も同じ時期に同じ場所で躑躅を見たのだつた。この一年、私の生活はまるで変はつてゐない。私といふ人間も相変はらずである。それの可し悪しは分らぬ。

馥郁たる躑躅を傍に、カシワとシナサワグルミの木の下に身を横たへて、ブラームス交響曲第2番を聴いた。自然(nature)と芸術(art)。対義する2つのものが、何故この瞬間、斯くの如き調和(harmony)を生んだのか。

 

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クリストファー・ハンプトン『キャリントン(Carrington)』1995

クリストファー・ハンプトン監督作、Progressiveな映画。ブルームズベリー・グループの作家、リットン・ストレッチーとその恋人(かう呼んで差し支へないと信ずる)、エマ・トンプソン演ずるドーラ・キャリントン、並びに周辺人物との関係を描く。どうしたら彼、彼女らのやうに、熾烈に肉を覓め、互ひに執着できるのだらう。三島由紀夫の『仮面の告白』後半を読む時と同じい虚しさを覚えた。

 

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ブルームズベリー・クラブ。大学で歴史を学んでゐた私は、このグループの存在をまつたく意外な所から、即ち英国の外交官、サー・ハロルド・ニコルソンを通して知つたのだつた。因みにヴァージニア・ウルフの著作は手にとつた事すらない。

 

イングランドの夏が羨ましくなつた。私は堪らなくなつて、ハリソンズ・オブ・エディンブラのメルソレアで仕立てた麻のスーツを着てこれを視聴したのだ。笑つてくれて良い。

 

管弦による背景音楽が美くしい。シューベルトも使はれてゐるが、多くは映画オリジナルのもので、マイケル・ナイマンの作曲。ベートベンの悲痛な後期カルテット(当時それは疑ひやうもなくprogressiveであつた)を思はせる。彼はパトリス・ルコントの『仕立て屋の恋』や『髪結ひの亭主』にも音楽を提供してゐるやうで、私の気に入るのも宜なる事だと思つた。

 

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ロジャー・ミッシェル『ノッティングヒルの恋人(Notting Hill)』1999

ロジャー・ミッシェル監督作。『モーリス』のヒュー・グラントが出演してゐる、当時39歳。かういふフィーリング・グッドな映画も偶には良い。斯様なものを積極的に取り入れた方が、人は素直なままで倖せになれるのだと、分かつてはゐるのだが。

 

ウィリアムと私の最たる違ひ。それは美人に愛される事ではなくて、相談できる家族が、友人がゐる事だらう。倖せとは、人と人との交感から生ずるもの。社交をただ羈絆と観ずる者には、何も起こらない。

 

嫌はれてゐるな日本人は、毒が効いてゐる。

20240413日記_西洋美術館にて

乱文になるが、もう以前のやうに平日ゆつくりと書く事のできぬ故、忘却するよりは文章に残して置きたいと思つた次第。

 

愛は死よりも強しと、ソロモン王は云つた。然り、愛とは不可思議だが、偉大な業である。殊に女性の愛は限りを知らぬ、男の蒙を啓くものだ。私はそれに応へる事を躊躇つて来た。一つは傲慢から、もう一つは臆病から。まだ間に合ふのだらうか。

 

此頃の私の顔には、拭へぬ生活の痕が顕らかである。又、立居振舞や言ひまわしから、余裕が消えたと思ふ。平生のやうに仏蘭西料理店でマダムと会話をしてゐて、さう思つた。怕くなつた私は上野の西洋美術館へと出かけた。

 

この行動は説明を要するだらうか。私の症状は病める魂に起因するのだ。魂への処方箋は愛、信仰、芸術、つまり「美」である。私は美の奔流に洗はれたかつた。Lavabis me Domine.

 

ところで、西洋美術館にキリストの復活を描ゐた絵画の所蔵はあるのだらうか。寡聞にして知らぬ。磔刑図や、ゲツセマネの園の絵は幾枚かあるが。

 

本日の訪問で、私の心を捉へた二作品を記録して置く。

パオロ・ヴェロネーゼの『聖女カタリナの神秘の結婚』。アレクサンドリアの聖カタリナは気高く聡明な女性。皇帝に膝を屈する事を拒絶して殉教した。このまへ、六本木の国立新美術館で彼女の殉教図を見た覚えがあるが、げに彼女は殉教の姿ばかりが描かれてゐる印象。

 

ギュスターヴ・ドレの『ラ・シエスタ、スペインの思ひ出』。ルーヴルでもさうであつたが、ドレは私を惹き付ける。この絵は以前は展示されてなかつたのではないか。光の調子が大変良い。

 

アン・リー『いつか晴れた日に(Sense and Sensibility)』1995_ソネット116番英和対訳

アン・リー監督作。ジェイン・オースティン『分別と多感』(1811)の映像化作品。『ハワーズ・エンド』のエマ・トンプソンヒュー・グラントらが出演。英国式のコスチューム・ドラマの名作を観たければ、エマ・トンプソンの出演作品一覧にあたれば良いと思はれる程、彼女は1990年代の英国映画で活躍をしてゐる。

 

同じオースティン原作『高慢と偏見』の類似作品と云ふより、英国式のコスチューム・ドラマはどれも似通つてゐる。英国式のコスチューム・ドラマを特徴付けるのは、miserableな現実主義。キーワードは財産、相続、縁戚、社交界、結婚。要するに、うんざりな俗事である。仮に構成物がこれらに限られてゐたら、英国式のコスチューム・ドラマは韓国映画と同質の汚物にすぎないのだが、ここに18世紀譲りの優雅・様式美とが不思議な共存をしてゐるから観てゐられる。制作陣に良識と教養があるから映画たり得る。

 

作中で沙翁のソネット116番が使はれてゐる。18番 "Shall I compare thee to a summer's day?" と並びポピュラーな一篇。翻譯をしてみる。

 

Let me not to the marriage of true minds
Admit impediments; love is not love
Which alters when it alteration finds,
Or bends with the remover to remove.
O no, it is an ever-fixèd mark
That looks on tempests and is never shaken;
It is the star to every wand'ring bark
Whose worth's unknown, although his height be taken.

Love's not time's fool, though rosy lips and cheeks
Within his bending sickle's compass come.
Love alters not with his brief hours and weeks,
But bears it out even to the edge of doom:

If this be error and upon me proved,
I never writ, nor no man ever loved.

 

私は真心の結びつきに妨げを認めぬ。
情況に応じ変はるもの、
離れるままに任せ得るもの、
それは愛にあらず。
否、愛とは揺らぐ事なきしるべ、
嵐を眺めやり、たじろぎもせぬ。
げに愛とはおほうみを往く帆船の北極星
その真価こそ分かねど、その高みは測り得る。

愛は時の悪戯にあらず、喩へ薔薇色の脣と頬とが、
時の利鎌を逃れ得ずとも。
愛とは時にうつらふ事なく、
裁きの日を迎ふるもの。

これに反証が為さるるとき、
私は詩を書くまいし、誰も愛すまい。

 

20240401日記_復活祭或いは愛する人の死

主の御復活おめでたうございます。

 

先日、祖父が亡くなつて以来はじめて祖父の家を訪れた。殊勝な事に、今や祖母は一人でestateの管理をしてゐる。女は強い、祖母や母を見てゐるとさう思ふ。私の一族の男はみな感傷的でいけない。

 

かのやうなclichéを使ひたくはないのだが、祖父の地所を逍遥してゐると、私は祖父が傍らにゐるやうな気がしたのだつた。祖父はどこにゐるのだつけか、書斎か知ら、川辺か知らと。

 

いみじくもリラダンが『ヴェラ』にて描破した事だが、死者は、生者がかの人の死を意識する事によつて、はじめて死者となる。さういふ事だらう。私はまだ祖父の死を受容れてゐない。

 

死は救済であると、私はこのブログで繰りかへし、横風に述べて来た。当人にとつてはさうに違ひない。私自身が現し世からの逃避を望む気持も、同様に誠である。だが残された人にとつては?

 

私はこれ以上、家族の死を堪へる事ができさうにない。愛する人無くして、この世に何があらう?私をかやうな世界で獨りにしないで欲しい。

 

主よ。復活祭を迎へて尚ほ、頑なで蒙昧なる我身、いと弱き我身を憐み給へ。

 

あゝ生きねば。

 

ワーグナー『トリスタンとイゾルデ(Tristan und Isolde)』1865_愛と死に就いての覚書

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新国立劇場の最上席での観劇。本歌劇の半音階的な重音進行や不協和音の構成は、後期ドイツロマン派を予感させる。内面的響きが特徴である。

前奏曲、「憧れの動機」に始まり、そこからとめどなく流れる美の奔流を受けて、私は忽ち夢うつつ。ゾルデといふ気高き女をまへにして、至高の忘我。

第一幕、屈辱に甘んずるを佳しとせず、一死以て復讐を果さんとする騎士さながらの戦闘精神を顕した強き女イゾルデ。第二幕、愛の偉大さに酔ひしれる歓喜のイゾルデ。第三幕の「愛の死」、トリスタンの死に相対し失意の淵に沈むイゾルデ。

「気高さ」てふ時代遅れの概念の、純然な結晶たる彼女の一挙一動が、私を恍惚とさせたのだつた。

上演には残念乍ら傷があつた。周期的に舞台に現れる、出たがりの猿共(水夫及び兵士役の「その他大勢」)。彼奴輩はワーグナーを知らない。雲助馬丁に劣る下賤の輩の披露する猿踊りは、つゆもワーグナー芸術と相容れる處がない。芸術への堪へ難き冒涜と観じ、目を逸らす事幾度だつたらう。

 

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扨て、トリスタンとイゾルデの死に就いて。二人は救済されたのであらうか?二人の愛は完成したのだらうか?これらを考察するに、イゾルデの「愛の死」の詩は、二人の復活を暗示させるに足るものであるし、更にワーグナーは脚本に斯く記してゐる。

ゾルデは浄化されたやうな姿でブランゲエネにだかれたまま静かにトリスタンの死體のうへに倒れかかる。周囲のひとびとのあひだに大きな感動と忘我

尠くとも、ワーグナーは二人の死を惨めなものとして描ゐてはない。

 

その一方で、彼らの死が十全無瑕でなかつた事も確かである。死に至る過程が問題だ。トリスタンは卑劣漢との一騎打ちに敗れ、その傷が原因で、イゾルデとの最期の逢瀬も満足に果たせずに死ぬ。「神明裁判」といふ考へ方もある時代、決闘に敗れるとはただの不名誉以上のこと。かやうに不完全な死を以てして、愛を完成させる事は果して可能なのだらうか。愛の完成は、ヴィリエ・ド・リラダンの『アクセル』で見られるやうな「完全さ」をシネクアノンとしないのだらうか。

 

愛と死の関係。これは私の研究テーマである。

 

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カトリック聖歌集105番『来ませ救ひ主』

Lentも第6週を迎へてゐるが、本日紹介するのはAdventに歌はれるホ短調の聖歌。ヨハン・マッテゾンはこの調に就いて沈思的、悲しみ、痛みと述べてゐるが、この聖歌には相応しい調である。

この聖歌に歌はれてゐるのは、人類の大いなる罪への悔恨と、キリストが到来し人類を罪より解き放ち給うこと、即ち救ひへの希望とである。罪増す所恩寵もいや増せりと述べたのは聖パウロであつた。この聖歌を佳く歌ふ人は、人類にとつての上記二つの重大事を、正しく認識してゐる。私がこの聖歌を好む理由も、この歌が人類の最たる理智と賢明なる判断力とを示すものだからである。

それに詞の文語調も比類なく美くしい。斯様な美を惜し気もなく拋棄する現代人はdevilishである。

 

【歌詞】

1 来ませ救ひ主 憐れみ給ひて
  罪科に沈む 我を助けませ
  よろこべ諸人 主は来たり給もう

2 来ませ救ひ主 君が光もて
  道ゆき惑へる 民を照らしませ
  よろこべ諸人 主は来たり給もう

3 来ませ救ひ主 愛の御翼に
  我らをはぐくみ 涙ぬぐひませ
  よろこべ諸人 主は来たり給もう

 

音源は下記のリンクから。

 

doratomo.jp

 

 

 

Lent is now in its sixth week, and today I present a chant in the key of E minor, which is sung in Advent. Johann Mattheson describes this key as pensive, sad and painful, which is truly appropriate for this chant.
The chant is about the contrition of mankind for its great sins and the hope of Christ's coming to free mankind from sin, that is, salvation. It was St Paul who said that where sin increases, grace also increases. The person who sings this hymn well recognises two important things for mankind. The reason I like this chant is that it shows mankind's greatest wisdom and wise judgment.
And the literary style of the lyrics is also incomparably beautiful. I must say that modern men who ungrudgingly abandon such beauty are insane.

 

 

 

長谷川潔とマニエール・ノワールに就いて


晴れ、身に堪ふる寒さ。各大学は卒業式を迎へてゐるやうで、昨日などは学習院門前で愛子内親王殿下を御見かけした。祖母に話してやらう、きつと悦ぶだらう。

 

扨て、眩しい若者達を余所目に、私は休暇を利用して群馬県立近代美術館を訪ふた。私はこの美術館を以前から知つてゐた。何せギュスターヴ・モローの所蔵がある。それに現在、長谷川潔画伯の特別展が催されてゐる。

 

私は朝まだきの上野驛を発つた。高崎驛まで乗換は無いが、遅延もあり到着に三時間を要した。旅上には窓の外、野に咲く菫の観賞を愉しんだ。春である。私はうら若き菫を前にして、己の蒼然たる外套姿を耻ぢた。

 

高崎問屋町驛付近の仏蘭西料理店「リラダン」で昼餉。店名はパリ北西ポントワーズ近郊のコミューンに由来してをり、斯の作家を意識してのものではない。前菜にパテ・ド・カンパーニュ、主菜は白身魚のパータ・フィロ。

 

レストラン近くの停留所から路線バスを乗継ぎ一時間。気分を悪くし乍らも、群馬県立近代美術館に到着。此処らで画伯の事を少し書いて置かう。

 

長谷川潔は1891年横浜に生る。生れ乍ら蒲柳の質で、実業に堪へ兼ねるといふ判断から芸術家を志す。若き頃にはウィリアム・ブレイクオディロン・ルドンの神秘性、象徴性に惹かれてゐたと云ふが、この傾向は後年になつて彼を捉へた。

1918年銅版画技法習得の為に渡仏、以後再び帰朝せず。大戦中の苦難を乗越へ仏国で仕事を続ける。後年、版画技法マニエール・ノワールを、新しい表現を以て復興させた功に拠りて、仏翰林院の会員となつた。

 

招待券を示して展示室へ。画伯は天才型にあらず秀才型の芸術家であつたやうで、chronologicに並べられた展示には、たゆまぬ努力の跡が顕著であつた。殊、画伯が齢七十弱にして示されたマニエール・ノワールへの専心には、感嘆を禁じ得ぬ。

 

マニエール・ノワールとは黒と白の半調子でグラデーションを表現する技法。油絵のモノクローム複製をつくるのに適した技法として、18世紀から19世紀前半に隆盛を見るが、その目的上、写真の発明と伴に衰退し、画伯が渡仏した頃には幻の技法となつてゐた。

画伯のマニエール・ノワールの特長。上述に反して画伯は、本技法でコントラストを表現した。目立ちの密度が高い、ビロードが如き漆黒の背景に浮かぶのは、白き線で簡潔に表現された植物、動物らモチーフ。それらモチーフは細心の注意で配置されてゐる。作品には強度の洗練があり、簡潔さをvirtueとする日本芸術の亀鑑である。

『小鳥と胡蝶』(1961)、『飼ひ馴らされた小鳥』(1962)を見て欲しい。暗闇の中にぼうつと浮かぶ対象。鑑賞を続けてゐると、丁度朧気な記憶を探つてゐるやうな感覚に陥ゐるが、それが何とも心地良い。

小鳥の表情を見よ。地に彳みて、つぶらかなる眸以て、花と種子とをみつむる小鳥。それは何かを思索してゐるやうな、或いはうつらうつらと無心で眺めやつてゐるやうな。

私は久しくこの小鳥の態度を失してゐたやうに思ふ。即ち、美を前にして、我等が採るべき態度を。斯の小鳥のやうに、世俗を忘却し、魂の閑情を保ち、半眼でじつと対象をみつむること。この態度無くしては、我々は美を愉しめないし、美を解き明かす事もできまい。

 

クリストフ・オノレ『Winter boy(Le Lycéen)』2022

 

クリストフ・オノレ監督作。新文芸坐で鑑賞。オノレは指揮者の大野和士氏と交遊があるやうで、彼の依頼により幾つかオペラ演出も手掛けてゐる。

 

During the play, I wondered to get up and walk away several times. 同性愛描写がきつい、宗教を悪し様に描く。さういふ訳で私には歪んだ評価しかできぬ。

 

What a mundane film. The insufferable fatigues of idleness!「世の流行に媚びれるだけ媚びてみました」と云ふ印象。同性愛者の少年が、父を亡くし、巴里に出て、黒人に恋し、失恋し、自殺未遂を起し、失語症になり、黒人の行動により恢復する。信仰なき、魂に於る「弱者」の、瑣末な「ドラマ」である。これに高評価を与へる人間が多数派であると云ふ現実がおぞましい。

一点、constructive criticismを申し上げる。英題"Winter boy"ママの邦題に就いては、オリジナルの直訳『或る高校生』とした方が、ドラマの本質を捉へると云ふ観点から遙かに良い。

 

エス彼處にては、何の能力ある業をも行ひ給ふこと能はず、(...)彼らの信仰なきを怪しみ給へり(マルコ傳6:4-6)

 

映画と云ふ領域に於る美の喪失は、近年愈々著しいやうに思ふ。だが信仰なき處に印の生ぜぬ如く、芸術を理解せぬ世に美が生じないのは、当然の事であらう。